われわれの美徳は、ほとんど常に、仮想した悪徳にすぎない。


もしわれわれが欠点をもたなかったら、ほかの人の欠点に気づく場合、こうまで嬉しくはないはずである。


人は決して、みずから思うほどに、幸福でもなければ、不幸でもない。


恋にはひといろしかない。しかし、恋の写しは種々さまざまで、きりがない。


沈黙は、自信のない人間のくみするもっとも安全な方策だ。


人間がもしだましあいをしなかったら、永いあいだ社会生活などはしていられなくなるであろう。



17世紀フランスのモラリスト、ラ・ロシュフコオの『箴言と考察』に収録されたアフォリズムである。内藤 濯*の名訳で紹介されている。


*内藤 濯(ないとう・あろう):1883~1977.フランス文学者。モリエールの『人間ぎらい』、サン・テ・グジュペリの『星の王子さま』などの翻訳で知られる。



盛名は、それを支える腕のない人々を、向上させはしないで低下されるものだ。


智は、いつも情に一ぱい食わされる。


精神の疵(きず)は、顔の疵と同じように、年をとるにつれてひどくなる。


よい結婚はある。がしかし、食いつきたいほど美しい結婚はない。


うぬ惚れというものがついぞなかったら、人生はてんで楽しくはあるまい。


狡い行いと、人の裏を掻く行いとは、ただ、腕が足りないことに基因する。



フランスからは、「モラリスト」と呼ばれる思想家が多く輩出した。モラリストとは、人間の行き方の探求者を漠然と意味する呼称である。しかし、その多くが、箴言集を物している。モンテーニュ、パスカル、シャンフォール、リヴァロル、ジョゼフ・ジュベール、そして、この、ラ・ロシュフコオである。

ロシュフコオが『箴言』を刊行したのが、1665年。51歳のときのことである。



弱さだけが、どうしても矯めることのできない欠点である。


他の支配を受けまいとすることは、他を支配すること以上に困難である。


阿諛追従(あゆついしょう)は、人間の虚栄がなくては通用せぬ贋金(にせがね)だ。


人は、自分だけしか知らない自分の過失を、わけもなく忘れる。


世間は多くの場合、人気とか幸運だけをたよりにして、人の品さだめをする。



同書に収められたものの中には相当長いものもあるのだが、やはり、箴言、アフォリズムというのは、短いものがよりシャープである。そして、普遍的真理を捕捉しているように見える。長く、修飾語、句、節が多いものは、それにより十分な説明を施し、意味を限定してしまうため、読者の想像を制約してしまうためであろう。短い言葉は、緊縮した内容に、読者による無限の、そして、万能の意味を付加させることを促す。



偽善は、悪徳に向ってささげる讃辞である。


あまり性急に恩返しをしようとするのは、一種の忘恩行為である。


大きな度量は、一切をさげすんで、一切を得ようとする。


ほんとうの雄弁は、言うべき一切を言い、言うべきことだけをいうところにある。


人間一般を識ることは、個々の人間を識ることよりたやすい。


こうした「箴言」の他に「考察」という編も収めているのが本書なのだが、奥付を見ると、昭和58年、つまり、1982年の発行である。おそらく、購読したのも20年くらい前のことになるだろう。本棚の中に、静かに納まっていた。これも「とっておきの本」である。



ラ・ロシュフコオ, 内藤 濯
箴言と考察