下山定則・初代国鉄(注)総裁が就任間もなく謎に包まれた死を遂げる「下山事件 」が起きたのは、遠く今より57年前、昭和24(1949)年7月のことだった。米軍にこの国が占領されていたときである。


注)国鉄:JRの前身。「日本国有鉄道」の略称。1949年発足した公社で、長らく鉄道省(後の運輸省)が直轄していた国営鉄道事業を継承しその経営主体となった。事件発生は、下山氏がその初代総裁に就任して間もなくのことだった。



GHQの指令による国鉄職員10万人にも及ぶ大量首切りがまさに断行されようとするとき、そして、朝鮮戦争勃発前夜、東西両陣営の角逐がいよいよ先鋭化し、国内でも「革命」が叫ばれるような時代が背景にあった。


自分などは、これよりだいぶ後の時代の人間ではあるが、もう、中学・高校時代には、それが米国占領軍による謀殺であることが“公然の秘密”であるかのようにあからさまに語られていた記憶がある。それよりはるか以前の1960年代前半には、作家の松本清張の『黒い霧』を皮切りにすでにいくつもの「謀殺説」が出されていた時期であることにもよるだろう。そのときは、無論、「サンフランシスコ講和条約」を経て、今と同じく、この国も形式的には「独立国」となっていた。


確かに、あの事件は「自殺説」に自然に傾くかのように事実上葬られた。当初より、警視庁内部でも捜査一課が「自殺説」、捜査二課及び東京地検が「他殺説」と、根本から見解が分岐する中で捜査が進められる異様な展開であった。当初、遺体の司法解剖を行った法医学の権威・東京大学の古畑種基教授による所見も「死後轢断」、つまり、他殺説に論拠を与えるものだった。これもまた、法医学界の中で後に異論を生み、紛糾することになる。


しかし、いずれにせよ、「自殺」という結論を疑わせる、つまり、他殺を主張するに足るあまりにも多くの情報や状況をそのままに、政治的圧力が濃厚ににおう中、事件はうやむやにされていった。


いったい、下山の死、そして、「自殺」という解決によって得をしたのは誰だったのか?


諸永 裕司
葬られた夏―追跡・下山事件


本書は、その事件よりもはるか後、20年を経て(1969年)誕生したという若き記者の奮闘の足跡である。当時の捜査担当官たち、左右両派に分派し熾烈な抗争を繰り返していた国鉄労働組合の中心人物たち、占領軍と通謀する日本側の協力者たち、さまざまなキーマンたちを執拗に追う。果ては、当時の占領軍謀略機関のキーマンを、米国に追い詰める。


そして、得られた数々の材料を本書にて開示されると、心証は、ますます「他殺」=「謀殺」の可能性濃厚である。しかし、証言者の誰もが「私が殺した」あるいは、「殺しに関与した」とは言わない(当然のこと)。


“無条件降伏”に続く米軍の占領下、GHQが「カラスをサギ」とも言いくるめらる絶大な権力を行使した時代のことである。すべては、闇の中。若き記者の労苦は、十分には報われなかった。しかし、この貴重な取材活動を通じて得られた新規の証言や情報の数々は、あの事件の結末がますます疑うに足るものであると確信させてくれる。それだけでも、大いなる価値を認められる。そして、本文末には「未完」と記されている。ここに、今後にも続く執念を覗かせていた。


事件の前夜、まさに、時代の転換点であった。そして、後の高度経済成長の時代のとば口に当たるときでもあった。真実を歴史の中に無理やり封印したあの陰鬱な夏が、出口を失った今の日本の蒸し暑い夏にまたオーバーラップしてくる不気味さを感じないではいられない。