●自由な魂の漂着するところ


令嬢・夏子は、二十歳。わがままで自由奔放、家人の誰もが手に負えない。ある朝、突如として、「私、修道院に入る」と宣言。もはや、誰にも止められない。行かせてくれなければ自殺をすると脅かして、睡眠薬で自殺の真似事まで始める。


『夏子の冒険』は、三島由紀夫の古い古い中篇。昭和27年「週刊朝日」に連載され、翌28年には松竹で映画化されている。自分など、まだこの世にはいない。三島由紀夫といえば、『金閣寺』『仮面の告白』『豊饒の海』と、重厚な純文学作品で知られる正統派だが、これは、中間小説のような軽妙な作品。


夏子は交際相手の男たちを、あたかも昆虫の標本のように観察しては分類する。カブトムシのような男。キリギリスのような青年。モンシロチョウのような学生。カミキリムシのような会社員…。彼らをことごとく、何々類の何々目と分類する。不覚にもあくびを漏らし金歯をさらしたために、キンバエにされてしまった男もいる。


さりとて、偏見は一切持たない。甲より乙が、と比べることもない。あれもよし、これもよしである。夏子はどの男も半分軽蔑しては、半分尊敬。半分愛しては半分嫌っていた。


夏子はとことん人を愛せないが、慈愛の精神はそこそこ持っていた。

そして、眠れる熱情を自らのうちに自覚している。しかし、この眠れる情熱はよほど烈しく、それと同じ強度の情熱としか共鳴しないらしいのだ。
重役を目指すエリート社員もだめ、大学の助手もだめ、建築家志望の学生もだめ…、男という男に夏子は失望させられる。


その挙句、くだんの修道院入り宣言と相成る。いかなる制止も、いかような説得も徒労と知る家族たちが、当惑しつつも夏子の願いを聞き容れる。


そして、函館の修道院に向かう青函連絡船(懐かしいね)の船上。今までの男とは似ても似つかぬ青年と邂逅する。海原を見つめる目は「暗い、どす黒い、森の獣のような光を帯びていた」。その輝きも、並みのものではない。「深く暗い混沌の奥から射し出てくるような、何か途方もない大きなものを持て余しているような、とにかく異様に美しい瞳であった」。


青年の旅の目的は、熊狩り。それも、復讐のためという。愛しい人の命を奪った憎き人喰い熊を追い求める、執心に満ちた彼の瞳。ますます目くるめくような気持ちに、夏子は舞い立つ。

そして、突如、翻意する。修道院はやめた。困惑する青年にせがんで、熊狩りに同道する。北海道の山深く分け入って、仇敵の熊を追い求める青年に、手足まといのジャジャ馬娘がついていく。ここから、夏子の冒険奇譚が始まる。


渉猟の果て、困憊の末、ついに青年は怨敵・四本指の人喰い熊を追い詰める。見事に仕留めた。そして、積年の思いを遂げた青年は、一躍土地の英雄となる。


そんな青年に、夏子は求婚されるのである。東京への帰路、函館を出て青森に向かう連絡線の船上でのことだった。帰京したら、新しい生活へのスタートが。

だが、……。もはや、夏子の胸はその言葉に高鳴ることはなかった。そして、夏子が恋焦がれた、あの瞳は失せていた。どこにでもいる男と同じ、退屈なものに相手の姿が映るのを覚えてしまった。


「そうだ、熊を仕留めてしまったからだ」。夏子は、ふと気づく。「熊を仕留めて以来、この人はあの瞳の輝きを失くしてしまったのだ」。夏子を落胆が襲う。


いかなる因襲にも、常識にもとらわれない。奔放に、野放図に、縦横に、心が遊弋する自由人・夏子。女嫌い?の三島先生が生み出した夏子は、おそらく戦後日本文学に現れた最も魅力ある女性ではあるまいか。


果たして、……。夏子の気持ちは、やはり、一点に静止するすることはなかった。すでに、夏子にためらいはない。船が青森港に着岸せんとするせつな、またしても、あの宣言を何の屈託もなく繰り返す。「私、やっぱり、修道院へ行く」。


自由の極限までに近接した魂は、行き着くところ、規律に焦がれるものなのか。