それはベニグド アキノの暗殺で始まった | フィリッピンの基地★スービック海軍基地

フィリッピンの基地★スービック海軍基地

アメリカ海軍が戻るか。米国海軍の基地の街、 かってはスービック海軍基地。 近くにはクラーク区軍基地もあった。

1983年8月21日、国軍の兵士たちが厳重に警戒にあたっていたマニラ国際空港に、アキノ氏は台北から乗ってきた中華航空機で到着しました。

機内にはアキノ氏帰国を取材するために多くの取材陣が乗っており、カメラによる撮影もなされていました。そこへ3人の兵士がニノイを機外へと連れ出しに来て、アキノ氏は兵士とともにタラップを降りると、すぐ頭を撃たれて倒れました。即死です。
アキノの最後の言葉は、飛行機を降りる直前に同行していた記者に言った、「必ず何かが起こるから、カメラを回し続けておいてくれ」でした。 アキノ氏の到着を中継していたTV放送は直ちに、映像を世界へ発信しました。

1986年2月7日に行われた大統領選挙では、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利したと示したものの、中央選挙管理委員会の公式記録はマルコスが160万票の差で勝利したと発表ししました。

マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、アメリカ政府、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会からの非難を浴びました。

結局、2月22日選挙結果に反対するエンリレ国防相、ラモス参謀長らが決起し、これを擁護する人々100万人がマニラの大通りを埋めます。

2月25日、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコスはアメリカ軍に一家を北イロコス州へ避難させることを要請し、一家はヘリコプターで脱出し、 ハワイへ亡命します。(エドゥサ革命または人民革命)


市民市民運動の高まりが、 政権を変える原動力になったフィリッピン社会は、その後の高まりは、 スービックアメリカ海軍基地の使用期限が迫っていた頃、さらに大きくなり、 アメリカは10年間の使用延長を請求したものの、フィリッピン上院議会で拒否されます。

第41代のアメリカ大統領ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュの時、 スービック海軍基地はクラーク空軍基地とともに1991年11月26日に返還、 撤収しました。
 
時のフィリピン大統領はコラソン アキノ氏で、 暗殺されたアキノ氏夫人で現大統領の実母です。 ちなみに時の中国の最高権力者は楊尚昆でしたが、 実権は鄧小平から江沢民への過度期でした。