先日、ミセスのアルバムをようやくひと通りダウンロードして、昔の曲も聞くことができるようになった。



フェーズ1の曲を聞いていると、うまくいえないけど、少し安堵する感じがある。




僕はミセスを知ったのがフェーズ2が走り出してからで、初めてミセスの曲として認知したのがたぶん『僕のこと』。




深く感動したのと同時に、この曲を書いたのが自分より歳下の人と知ってにわかには信じられず、「この人は人生何周目なの…?」と慄いた。



その後すぐリリースされた『ケセラセラ』も、この曲を書いた大森元貴と同い年の時の僕にはとても達せなかっただろう境地だったので、曲自体には感動しつつも大森元貴の年齢離れした人生観に「敵わない」と感じた。(や、敵うつもりなのがおこがましいし敵う敵わないの話でもないんだけど、つまりは圧倒されたとでも言おうか)





だから、フェーズ1の曲を聞いていると、生きることの苦しさ、イカれた世界への呪いや憤り、悲しみと傷つき、いろんなことをとても素直に綴って怒りを撒き散らし、魂ごともがいて叫んでるような若さが見えて、少し安堵する。




「ああ、この人にもちゃんとこういう時期があったんだなあ」と。ただいきなり人生何周目の境地に達したわけじゃなく、もがき苦しんで今があり、



「愛されたい」が「愛されてる」になり、孤独に怯えて「助けて欲しい 温めて欲しい」が孤独に怯える相手へ「まず愛してる僕がいる」と言えるようになり、




そうして「僕は僕自身を愛せてる」に移り変わっていったんだなと思うと、とても人間らしいなと感じる。





アルバムを遡って聞いていると、少年が青年になり、成熟した大人になっていく様を逆再生で辿っているような感覚になる。



この人は、音楽と共に生きているんだなぁと思う。具体的なことは知りようもないけれど、苦しい時を、歯を食いしばりながら生きてきて、音楽にすることで自分を救ってきたんだろうなぁと思う。



それに自分を重ねるほど厚かましくもおこがましくもなりたくないけれど、そういう深みのある曲だからこそ、たくさんの人が自分の苦しかった感情や記憶を投影して感傷に浸ったり傷を癒したりすることができるし、僕もまたそのひとりなのだろう。




特にフェーズ2以降はビジュアルもすごくキラキラしているから、メロディーのポップさと相まって騙されそうになるけど、ミセスの曲は基本的に非常に内省的で、人生観や矜持を歌ったものがとても多いと思う。あまり明るくないし、「こういうふうに生きたい」とひとり語りで歌っているイメージがする。



改めて別記事で書きたいと思っているが、僕が10年来追いかけ続けてきたアーティストはどちらかというと「あなた」という特定の誰かの顔を思い浮かべて歌っている曲が多かったので、そこは対照的で。だからミセスの曲は、誰かを想って歌ったり聴いたりというよりは、1人で噛みしめるような楽しみ方をしている。




なんか、もう誰もが知る国民的アーティストだから別に目を引くような発言ではないんだろうけど、「ミセスのファンです」ってリアルの場ではごく親しい人にしか話せてない。曲があまりに自分にピンズドだから、自分の矜持を公言するみたいで恥ずかしくて。笑





なんにせよ、出会ったのがちょうど自分にも人生の転機が訪れるタイミングだったのは幸運だったな。



『僕のこと』と『ケセラセラ』に出会ったタイミングはほんとうに完璧で、あと数日、数週間でもズレていたら今僕はこんなにハマっていなかったと思う。もっと悪いことに、歌詞の意味を理解できる境地に辿り着けてなかった気がする。



今や生活を送る上で欠かせない彩になっているのだから、ほんとうに巡り合わせとは不思議なものだ。




来月のゼンジンLive、なんとかチケットゲットできたので、満喫してきたい。当日難聴が出ないように、体調万全に整えなければ!