【あらすじ・試し読み】

 

突然始まった理不尽な「学級裁判」。

生き残る条件は、自分たちの手で「教師」を裁くこと――。

疑心暗鬼、裏切り、そして狂気。

極限状態の教室で、彼らが下す選択とは?

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* * *

 

学級裁判一日目 (1回目)

 

 

二十二時。

 

誠はベッドに寝転がり、スマホに映る恋人・雪菜の写真を眺めていた。

夏に、二人で海へ行ったときのものだ。

デートの途中でふらりと立ち寄った、海が見える新築戸建ての見学会。

バルコニーから青い水平線を見下ろし、「将来、こんな家に住んで、子どもと一緒に海を見られたら最高だね」と無邪気に笑っていた彼女の顔を、液晶の光が照らしている。

 

いつか雪菜と築く、ありふれた温かい家庭。

 

そんな確かな未来の予感に自然と口角が上がった――その直後だった。

 

臓腑を抉り上げるような浮遊感が、誠の全身を突き抜けた。

抗う間もなく、どす黒い睡魔が意識を塗り潰していく。

 

耳の奥で甲高い耳鳴りが反響し、そのまま暗黒へ引きずり込まれた。

 

『……結城誠……お前を「裁判官」に任命する……』

『このクラスの生殺与奪を、その手に委ねよう……』

『正体を知られてはならぬ……ただ沈黙し、選定せよ……』

 

「……え?」

 

激しく噎せ返り、跳ね起きた。

 

二年四組の教室。だが、吐く息がありえないほど白い。

肌を刺す異常な冷気が、教室中を冷凍庫のように満たしていた。

鉄錆と焦げた臭いが鼻腔を突く。

手をついた自分の机は、まるで氷のように冷え切っていた。

窓ガラスの向こうには光の粒ひとつなく、ただ濃密な黒がべったりと張り付いている。

街の喧騒は一切聞こえず、ただ低い風の唸りが、まるで巨大な獣の咆哮か、あるいはどこかで巨大な発電機が回り続けているような重低音となって、校舎全体をビリビリと震わせていた。

 

ふと、足元に奇妙な違和感を覚えた。

床が、ほんのわずかに不自然な角度で傾斜しているような気がする。

 

(……めまいか? いや、違う。この狂った空間そのものが、歪んでいるんだ……)

 

「なんで学校に!?」

「誰が着替えさせたのよ!」

 

クラス二十九名全員がその場にいた。

パジャマ姿だったはずの級友たちが、制服姿で立ち尽くし、互いの顔を見合わせている。

 

「……おい、なんだよこれ。寒すぎだろ……」

大吾が自分の腕をさすりながら、白い息を吐き出す。

 

「心霊スポットって異常に冷えるって言うし……」

女子生徒の一人が、ガタガタと震える声で呟いた。

 

「俺たちをビビらせるためのホラー演出ってやつかよ。システムか呪いか知らねえが、悪趣味にもほどがあるぞ……!」

誰かが吐き捨てるように言う。

 

その言葉に、誠も無意識に頷きそうになった。

 

自分たちをこの異常な空間に閉じ込めた『何か』が、恐怖を煽るためにわざと室温を下げているのだと、誰もがそう思い込もうとしていた。

 

そのとき――キィィィィィッ!!

黒板を鋭い爪で引き裂くような不快な絶叫が鼓膜を打った。

 

宙に浮いたチョークが、白い粉を撒き散らしながら勝手に走り出す。

 

【学級裁判 期間二日間】

【十三人の教師から一人選べ】

 

カン、カンと冷たい音を立てて名前が並ぶ。

 

【田中】【郷田】【佐藤】【鬼頭】【五味】【大西】【白鳥】

【河合】【北条】【志摩】【葛西】【荒木】【沢渡】

 

「ふざけるな!」

郡司が怒号を撒き散らし、前扉へ駆け出す。

「こんな悪趣味な――俺は帰るぞ!」

 

ドアノブを掴んだ瞬間。

郡司の腕に、ピキリと白い亀裂が這い上った。

 

「待て!」

 

誠は反射的に駆け寄り、その腕を掴む。

直後。

 

パリン、と硬質な音が空気を叩いた。

掴んだはずの腕が、手の中で砕け散る。

 

「うわああああ!」

誰かの絶叫が響いた。

 

それを合図にしたかのように、郡司の肉体が白い欠片となって床へ散乱し、瞬く間に細かな粉へと崩れ去る。

 

「いや、いやあああっ!」

「嘘だろ、なんだよこれ!」

教室が狂乱の渦に呑み込まれた。

 

ガタガタと椅子を倒して後ずさる音、逃げ惑って壁にぶつかる音。

床に散らばった『郡司だったもの』を見て、女子生徒の一人が口元を押さえてへたり込む。

 

その傍らで、秋山萌が恐怖に顔を引きつらせながらも、無意識に制服のポケットへ指を這わせていた。

そこにあるはずのスマートフォンは存在しないにもかかわらず、彼女の瞳には、他人の不幸を安全圏から楽しむような薄気味悪い好奇心が張り付いていた。

 

日常ではありえない異常な光景に、二十八人のパニックは一瞬で頂点に達していた。

 

「ハァッ……ハァッ……息が……っ」

女子生徒の一人が胸を掻きむしり、過呼吸を起こしたように荒い息を吐いている。

誠自身も、まるで肺が直接締め付けられているように空気が薄く感じられ、激しい息苦しさに襲われていた。

 

(……落ち着け。ただの過呼吸だ。目の前で人が消えた異常な恐怖で、みんな息の仕方が分からなくなってるだけだ……!)

 

極限のパニックがもたらす心理的な錯覚だ。

誠は必死にそう自分に言い聞かせ、無理やり冷たい空気を肺へと押し込む。

その瞬間、目覚めた時から鼻腔を突いていたツンとした異臭が、さらに濃く感じられた。

「……なんだよ、この臭い。鉄が錆びたような……血の臭いかよ……っ」

 

和也が口元を覆ってえずく。

 

郡司が白い粉となって消滅した空間には、ひどく人工的な、何かが激しく焦げたような不吉な臭いが漂っていた。

 

(人間が……一瞬で理不尽に焼き尽くされたような臭い……。正体はわからない。だが間違いなくこれが、ここで命を奪われた者の『死の匂い』だ……!)

 

誠の胃が激しくせり上がる。

化学的な焦げ臭さと鉄の匂いを、誠たちの脳は『デスゲーム特有の、肉体が消滅した時の悍ましい臭い』として生々しく処理し、彼らをさらなる絶望の底へと引きずり込んでいた。

 

誠は空を切った両手を見下ろす。血の温もりも、肉の感触もない。

掌にこびりついているのは、骨の髄まで凍てつくような絶対的な冷気だけだった。

 

(俺は……この手で誰かを殺すことになるのか?)

 

脳裏に、あの潮風が吹くバルコニーの情景がフラッシュバックした。

あの海が見える家で、いつか雪菜と我が子を抱きしめるはずだった手。

もし、この手が本当に誰かの命を奪う引き金になってしまったら――。

 

誰かの命を砕いた手で、あの温かい未来に触れることなど許されるのだろうか。

 

耳をつんざくような悲鳴と怒号が飛び交う中、想像を絶する恐怖と落差に眩暈を覚え、彼だけがその場に縫い付けられたように動けなかった。

 

「……は、話し合おう……!」

ひどく上擦った河野の声が、教室の騒音を切り裂いた。

「選ぶしかないんだ……僕たちが生きたいなら……!」

 

キィィィィィッ――。

再び黒板が軋む。

 

宙に浮いたチョークが、黒板を叩き割らんばかりの暴力的な勢いで、白い文字を刻みつけていった。

 

【机を動かし、二十八人で四角形を作れ】

【中央には郡司の机を配置せよ】

【自らの手で速やかに実行せよ。反抗する者には同等の罰を与える】

 

文字の下に、図形が描き出される。

ぽつんと孤立した一つの四角を、二十八の四角が隙間なく取り囲む「ロ」の字型の見取り図。

「……動かそう、早く!」

 

弾かれたように生徒たちが動き出す。

ひしめき合いながら机を引きずり、鈍い摩擦音が床を削った。

誰もが必死に机を運ぶ中、野村だけは自ら力を入れず他人の背中に隠れるように動き、完成した陣形の最も安全そうな内側の席へ誰よりも早く滑り込んだ。

自分が傷つかないことだけを最優先する小市民的な保身。

 

やがて、主を失った郡司の机を中央に隔離した、歪な陣形が完成する。

 

逃げ場のない四角形の中で、震える視線が交錯した。

 

「話し合うって……誰を殺すか決めるってことだろ!?」

男子生徒の一人が頭を抱え込む。

 

「やるしかないじゃない! やらなきゃ私たちが……粉々にされるんだよ!?」

女子の悲鳴が、張り詰めた空気を限界まで引き絞る。

 

「だったら、田中でいいだろ! あいつ俺の鞄、勝手に漁ったんだぞ!」

「五味だっていじめ隠してるじゃない!」

「鬼頭の体罰だって異常だろ! 鼓膜破られた先輩がいるんだぞ!」

 

誰も、自分の手を汚したくない。

だが、誰かをあの生贄の祭壇へ突き落とさなければ、自分が消される。

保身と責任転嫁の叫びが、狭い空間で狂ったようにぶつかり合う。

 

「……田中だ。あいつが一番ヘドが出る」

濁った空気に火がついた。

 

「そうだよ、田中先生なら……」

真っ先に同調したのは岡田だった。

クラスで発言力のある男子の背後にピタリと隠れ、自らは矢面に立たずに「俺もお前らと同じ意見だ」と声高に叫ぶ。

 

強い者にすり寄り、責任を分散させる醜悪な同調圧力。

泥を被ってくれるなら、標的は誰でもよかった。

 

教室の意思が、「田中」という一点に収束していく。

そのとき、三度黒板が鳴った。

 

宙に浮いたチョークが、カン、カンと無慈悲に決定事項を打ち込んでいく。

 

【被告:田中】

【裁判官よ……執行官にしたい者を思い浮かべろ】

【全員、目を閉じろ】

 

誠の心臓が早鐘を打つ。

 

標的が決まり、今度はそれに「手を下す者」を決めなければならない。静まり返った教室で、二十八人がゆっくりと目を閉じた。

 

瞼を閉じる。暗闇の中、脳裏に一人の少女がこびりついて離れなかった。間宮麗奈。

郡司が砕け散った白い遺灰を、うっとりと見つめていたあの瞳。

 

(彼女なら……躊躇わずに「執行」するのではないか)

 

生存本能が弾き出した、冷酷な結論。誠は麗奈の姿を、強く思い浮かべる。

足元が、わずかに震えた。何かが「確定」した気配。

 

【目を開けろ。机の中を確認せよ。他者に見せれば死】

 

恐る恐る目を開け、自分の机の中に手を入れる。

引きずり出した木札に刻まれていたのは、【裁判官】の三文字。

顔を上げる。

 

最前列の向こうで、間宮麗奈がゆっくりと顔を上げた。

 

目が合う。彼女の唇が、かつてないほど純粋な歓喜の形に弧を描く。

背筋が凍り、誠は視線を逸らした。

 

彼女の机の中にあるのは、間違いなく【執行官】の札だ。誠は震える手で、自らの木札を制服のポケットへとねじ込んだ。

 

再びキィィィッと音が鳴る。

 

今度は宙に浮いた「赤いチョーク」が、黒板を削りながら乱暴に走った。

 

【明日二十二時までに執行せよ】

【二十三時、眠りにつけ】

 

血のように禍々しいその文字を最後に、意識は再び深い闇に沈んだ。

 

* * *

 

目を覚ますと自室だった。朝の光が白い天井を照らしている。

 

「……夢、だよな」

 

全身にじっとりと冷や汗がこびりついていた。荒い息を吐き出し、重い体を起こす。

 

いつもの朝だ。そう言い聞かせながら、ブレザーに袖を通した。

ポケットへ手を入れる。指先が、あってはならない硬く冷たい感触を捉えた。

 

「……嘘だろ」

 

手の中にあったのは、紛れもない【裁判官】の木札だった。

 

 

 

二年四組の扉を開け、誠は息を呑む。

 

裁判のために動かしたはずの机は、すべて元通りの規則正しい列に戻っていた。

だが、問題はそこではない。机が一つ、足りないのだ。

昨日、生贄として中央に配置したはずの郡司の机が、いつもの定位置にすら戻っておらず、彼のいた痕跡ごと消え失せている。

 

掲示板の座席表、日直の欄。どこを探しても「郡司満」の名前は見当たらない。

 

「ドッキリとか、そういう話じゃねえ……!」

小林和也が教室を飛び出す。誠も後を追い、郡司の家へ向かった。

 

 

「おばさん! 満を出してください!」

インターホンを叩くが、出てきた母親は怪訝な顔を浮かべるだけだった。

「……満? どなたのことですか? うちは主人と、私と、息子の樹の三人暮らしですよ」

 

郡司満という存在は、命だけでなく、この世界の歴史からも完全に消去されていた。

 

(嘘だろ!?)

 

帰り道。スマートフォンを開く。俺と和也、そして郡司の三人で写った写真。

だが、そこに郡司の姿はない。俺と和也との間に、不自然な空白があるだけだった。

 

 

学校へ戻ると、すでに授業が始まっていた。

 

「結城! 小林! どこをほっつき歩いていた!」

「郡司の家に行っていました……」

和也の言葉に、田中は露骨に眉をひそめた。

「郡司? 誰だそれは。このクラスにそんな生徒はいない」

 

教師までもが記憶を書き換えられている。

 

田中の背中に向けられた、クラス全員の恐怖を含んだ視線。それに耐えられず、誠は俯いた。

 

 

昼休み。

 

 

屋上の隅で、誠は一人、寒さとは違う震えを抱えていた。

 

「いい顔になってきたわね、裁判官様」

背後からの声。振り返る間もなく、間宮麗奈がそこに立っていた。

 

心臓が跳ね上がり、誠は反射的にポケットを押さえる。

 

だが麗奈は、すでにすべてを理解しているように微笑んでいた。彼女は自分の木札を裏返し、誠の目の前でわざと見せつける。

 

「焦らないで。見せなければ、ルール違反にはならないんでしょ?」

 

息が触れるほど距離が近い。甘く、毒を含んだ香りが誠の鼻腔をくすぐる。

 

「ねぇ……貴方が、私を選んだんでしょ?」

囁き。そして確信。逃げ場はなかった。

「もし私が当てても、貴方が粉になって死ななければ、それが証明になるわ」

 

その恐ろしい理屈に、誠の思考が白く染まる。

 

麗奈は歪んだ、しかしどこまでも純粋な愉悦の笑みを浮かべた。

「あいつへの“教育”、準備できてるわ」

 

その一言に、誠の背筋を氷の刃が這い上がった。

 

 

夜――二十時過ぎ。

 

彼女の不気味な宣言を無視できず、密かに学校へ忍び込んだ誠は、暗い廊下の物陰で息を呑んだ。

面談室のなかで、田中は椅子にロープで縛り付けられ、首を垂れていた。

 

足元には、こぼれた缶コーヒーの茶色い染みが広がっている。

(まさか、目を離した隙に睡眠薬を……?)

 

誠の背筋に悪寒が走る。

 

その直後、田中がうめき声を上げ、パチリと目を覚ました。

 

「な、なんだ! 誰かいるのか!」

 

目隠しをされたまま暴れ狂う。背後に麗奈が立つ。

 

誠は廊下の物陰に身を潜め、最悪の事態――凄惨な殺戮を覚悟して強く拳を握りしめた。

だが、聞こえてきたのはクチャ、クチャという場違いな咀嚼音だった。

 

目を見開く。

 

麗奈は口から出したガムを、田中の頭頂部――不自然な黒髪のカツラへ容赦なく押し付けていた。

 

膝の力が抜ける。

理不尽に命を奪われるのだとばかり思っていた。やっていることは、ただの悪質なイタズラではないか。

 

「ひっ……な、何をした!」

 

「……新しいの、必要ね」

 

自身の頭に何が起きたかを理解した瞬間、田中の顔が恐怖と羞恥でどす黒く染まった。

 

「殺してやる!!」

 

刃物で刺されるよりも深い、大人の尊厳を完全に破壊された絶望の叫び。

だが麗奈は狂乱する田中を一瞥もせず、冷淡に背を向ける。

 

誠は暗い廊下で、血の気が引いた顔のまま立ち尽くしていた。

 

命は奪われなかったという安堵。そして、一滴の血も流さずに標的のプライドを的確に壊してみせた「悪意」への底知れぬ恐怖。

どちらにせよ、彼女を「執行官」に選んだのは自分だ。もう、後戻りはできない。

 

* * *

 

学級裁判二日目 (2回目)

 

 

二十二時。誠は重い瞼をこじ開けた。

 

「……嘘だろ。またここかよ」

隣で大吾が呻いた。窓ガラスを軋ませる猛吹雪。鉄と焦げた臭い。

 

夢であってほしかった絶望が、再び視界を塗り潰す。さらに、異変に気付く。

 

「え、外……!」

窓際にいた女子生徒が悲鳴のような声を上げた。

窓ガラスを軋ませ、視界を真っ白に染め上げる猛吹雪。

 

「嘘だろ……なんでこんな時期に、雪なんて……!」

誰かの震える声が響く。だが、狂気は窓の外だけではなかった。

 

教室内の異変はすでに完了していた。

 

「おい……なんだよこれ。最初から並んでるじゃねえか」

和也の強張った声に、誠は視線を落とす。

 

机はあらかじめ歪な四角形に組み上げられ、逃げ場のない陣形の中に強制的に着席させられていた。

四方を囲まれた中央の空間には何もない。昨日そこにあったはずの郡司の机すら消え失せ、ただ底知れぬ空白だけがぽっかりと口を開けている。

 

「朝の学校と同じだ。郡司の机が消えてる……」

誰かの乾いた呟きが、凍てついた空気に落ちた。

その恐怖を念押しするように、カン、カンと無機質な音を立てて、宙に浮いた白いチョークが黒板を走った。

 

【第一回執行:完了】

【被告:田中】

【内容:どこでもいいのでガムをつける】

 

「なんだ、ガムかよ」

 

「びびって損した」

 

強張っていた生徒たちの肩が下がり、引きつっていた顔に歪な余裕が浮かぶ。

 

『どこでもいい』はずの指示で、麗奈はピンポイントで頭頂部――カツラを狙った。偶然ではない。

前列に座る彼女の横顔を窺うと、その唇は三日月のように吊り上がっていた。

 

【次なる標的を議論せよ】

 

「もう怖くねえだろ。ガムで済むなら――」

大吾が机に足を投げ出した。

 

かろうじて保たれていた理性の堰が決壊する。

 

「次は鬼頭だ」

「いや河合だろ、接着剤で指くっつけたらどうなる?」

「それ最高じゃん」

下卑た笑い声が飛び交う。

 

恐怖に怯える生贄の顔は消え失せ、安全な檻の中から石を投げる卑劣な群衆へと成り下がっていた。

 

「……ねぇ」

隣で袖を引かれた。誠が振り向くと、雪菜がそこにいた。

「河合先生にしましょうよ」

誠は息を呑む。澄んでいたはずの雪菜の瞳が、泥水のように濁っている。

「いっそ……壊れちゃえばいいのに」

無邪気な声色が、誠の心臓を直接削り取る。

 

周囲の熱狂をまとめるように、河野が冷ややかに宣言した。

「決まりだな、河合だ」

「接着剤でいこう」

囃し立てる声に呼応するように、宙に浮いたチョークがカンッと強く黒板を叩いた。

 

【被告:河合】

 

文字はそれだけ。執行内容は書かれない。

生徒たちは「自分たちで刑罰を決めた」という万能感に酔いしれている。

 

(……本当に、俺たちが決めているのか?)

 

最前列で、麗奈が肩を揺らして笑いを噛み殺している。

 

「みんな、本当に滑稽で可愛い」

 

その瞳は、網にかかった獲物を見下ろす絶対的な捕食者の色だった。

 

* * *

 

 

翌朝。

 

外には雪などなく、夢の教室で窓の外から見た雪は何処にもなかった。

 

前扉を開けた田中の姿に、二十八人が一斉に口元を覆った。

 

整髪料で不自然に固められた頭頂部。そのど真ん中に、白く濁ったガムがべったりとへばりついている。

 

「……おはよう。授業を始めるぞ」

顔を茹でダコのように赤く染め、田中は早口で教科書を開く。

 

誰も触れられない。異様な空気が教室に充満する。

 

だが、昨日のような死の恐怖はもうどこにもない。『次はもっとやろうぜ』と書かれたちぎられたノートの切れ端が回り、隠しきれない嘲笑が波紋を広げていった。

 

昼休み。

 

誠と雪菜が旧校舎の階段下で息を潜めていると、ふらりと人影が現れた。

 

「……助けて……」

成瀬美咲だった。土気色の顔、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。

そのまま糸が切れたように、冷たいコンクリートの床へ崩れ落ちた。

 

「美咲!?」

 

雪菜が駆け寄る。だが、美咲は虚空を睨みつけたまま焦点が合っていない。

 

「……頭の中に……声が……『河合先生を、階段から突き落とせ』って……」

 

誠の心臓が、鷲掴みにされた。

 

「接着剤じゃないの!? なんで、私が……!」

美咲は床に額を打ち付け、獣のように泣き喚く。

 

かける言葉が見つからない。雪菜はただ、がたがたと震えている。

 

「ごめんね……私……」

美咲は足を引きずりながら闇の奥へ消えていった。

 

その背中が見えなくなった瞬間、雪菜が誠のブレザーの胸元にすがりついてきた。

 

「誠くん……私……!」

雪菜の口から、衝撃的な言葉がこぼれ落ちる。

「私が昨日の、裁判官だったの……!」

 

誠の呼吸が、止まった。

 

「美咲を執行官にしたの、私なのよ! 接着剤なら簡単だと思った……あの子なら、私が守れると思った……でも……」

 

嗚咽が言葉を食い破る。

 

「私のせいで……彼女を“人殺し”にした……!」

 

誠は崩れ落ちる雪菜の肩を抱きとめる。

「君のせいじゃない……」

慰めの言葉は、ひどく空虚に廊下へ響いた。

 

「あら……美しいわね」

暗がりから、冷水を浴びせるような声が落ちた。振り返る。麗奈が腕を組んで壁にもたれていた。

 

「その“偽善者の抱擁”」

 

氷の視線が雪菜を射抜く。

「被害者みたいな顔をして、慰めてもらうのね」

「違う……!」

「結果がすべてよ。貴方は、一番断れない都合のいい子を生贄に選んだだけ」

水を得た魚のように麗奈の言葉は止まらない。

「今この瞬間も、あの子の精神は壊れ続けているわ。貴方のせいで」

 

雪菜の膝が折れる。倒れ込む体を誠は咄嗟に支えた。

 

麗奈はそれを見下ろし、赤い唇を歪める。

「その温もり、美咲ちゃんの命でできているのよ」

 

雪菜の喉から声にならない悲鳴が漏れる。麗奈は背を向けた。

「特等席で見てなさい。親友が殺人者になるか、冷たい死体になるか」

ヒールの音だけを残し、麗奈は闇へ溶けていく。

 

後には、泣き崩れる雪菜の重みだけが誠の腕に残された。

 

 

十六時のチャイムが鳴った。校舎三階。西日が廊下を血の色に染め上げている。

階段の踊り場。美咲はコンクリートの壁に背を押し付け、込み上げる吐き気を必死に飲み込んでいた。

 

(できない……)

 

『突き落とせ』 脳髄を直接削るような命令が反響する。

 

郡司の最期が、粉々に砕け散るあの音が、網膜に焼き付いて離れない。存在の完全な抹消。それだけは避けなければならない。

 

カツ、カツ、と軽快な足音が上の階から降りてくる。場違いな鼻歌。河合だ。

 

肋骨を突き破るほどの動悸が暴れ狂う。

 

美咲の視界の端、廊下の角に隠れる誠と雪菜の姿が映った。

 

雪菜は両手で口を塞ぎ、涙で顔をぐしゃぐしゃに歪めている。代わることはできない。それがシステムの絶対ルールだ。

(……ごめんね、美咲……)

雪菜の震える唇が、音もなくそう動いた。壁の影からそっと覗き込む。

 

楽譜を抱えた河合の背中が、無防備に一段ずつ階段を下りていく。

(……この背中を押せば終わる……私が、助かる……!)

両腕を突き出し、美咲の指先が背広の生地に触れようとした――その刹那。

 

「……あ、成瀬さん?」

河合が不意に足を止め、振り返った。

 

感情の抜け落ちた濁った瞳。不自然に張り付いた笑顔。

 

視線がぶつかった瞬間、美咲の思考の糸がプツリと切れた。全身から力が抜け、指先が凍りつく。

「どうしたんだい?」

いつもなら優しいはずのバリトンボイスが、今は処刑人の宣告にしか聞こえない。

 

(無理……!)

 

後ずさる。もう逃げ場はない。肺が空気を拒絶する。動けない。

――その瞬間、執行の猶予が完全に消えた。

 

* * *

 

殺人裁判一日目 (3回目)

 

 

二十二時。

 

誠の耳の奥には、美咲の絶叫がこびりついている。

 

重い瞼をこじ開けると、またあの極寒の教室だった。

宙に浮いたチョークが、カン、カンと無慈悲な音を立てた。刻み込まれる文字は、血のように赤黒く濁っていた。

 

【第二回執行:失敗】

【被告:河合】

【内容:階段から突き落とす】

【執行官:成瀬美咲】

【数日後、クラスの誰かに罰】

 

「なんだよそれ!」

逃げ場のない陣形の中で乱暴に立ち上がり、大吾が両手で机を打ち据えた。

 

「こいつがビビって失敗しただけだろ! なんで俺たちが罰を被るんだよ!」

ざわめきが四角形の陣形を這う。

「……全部、成瀬のせいじゃん」

空気が反転した。息を呑む音。

 

美咲へ向けられる視線から同情が消え失せ、醜い自己保身と敵意だけが残る。

 

キィィィィィッ!!

 

黒板の文字が、乱暴に削り取られた。直後、宙に浮いたチョークが、黒板を叩き割るような凄まじい勢いで新たな宣告を刻みつけていく。

 

【学級裁判、本日で終了】

【これより殺人裁判を開始する】

 

教室から一切の音が消えた。「殺人」の二文字が、暴力的に網膜へ焼き付く。

カン、カン、カン! と、耳を劈く硬質な音とともに、無慈悲な箇条書きが並んだ。

 

【ルール:殺人裁判】

・十一日以内に十三人の教師から六人を殺害せよ

・未達成の場合、全員死

・指定凶器のみ使用可

・執行官は一〜三名

・失敗には罰

・外部に露見するな

 

悪ふざけのゲームは終わった。

生きるためには、命を奪うしかない。

 

* * *

 

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ついに悪ふざけの域を越え、始まった「殺人裁判」。

限界を迎えたクラスメイトたちは、生き残るために誰を犠牲にするのか。

極限状態の中で狂っていく教室。

主人公・誠は愛する雪菜を守り抜き、この地獄から生還できるのか?

そして、この狂ったゲームを裏で操る「本当の黒幕」とは――!?

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