常識とは、18歳までに身に着けた偏見のコレクションである
とアインシュタインさんが言っていたように、
当たり前なんて実は全然当たり前じゃない
普通なんて実は普通じゃない
当たり前や普通という概念がある理由なんて
「そう決めつけた方が楽だから」
でしかない
もっともっと考えたら、何か当たり前の中にも
疑うべき部分や要素があるけど
日々情報にまみれて、脳がキャパオーバーしている僕たちは
自分たちにとって考えるべき部分だけ考えて
それ以外は、「当たり前」「普通」と言って片付ける
こう考える僕も実は偏見の目を持っているのかもしれない
自分の意見が正しいとも間違っているとも思わない
でも、「考える」ということをやめたくはない
ん?てかそもそも「考える」って何だろう?
〇〇!!!よく考えなさい!
□□!!!よく考えて発言しなさい!
△△!!!ちゃんと考えないと答えにはたどり着かないよ
日常生活でよく使われる「考える」という言葉
「考える時代」であると言われているが、
「考える」を考えたことはあるかい?
それについて考えようとする姿勢がきっと大事なんだと思う
考える、、、、考える、、、、、、、、、、考える
例えば、リンゴがあって
それについて考えてみる
もしかしたらリンゴの形そっくりのナシかもしれない
もしかしたらリンゴじゃなくてAppleかもしれない
もしかしたらリンゴになりたかったブドウかもしれない
もしかしたらリンゴの形に変装した虫かもしれない
もしかしたらアダムのリンゴかもしれない
もしかしたらリンゴじゃなくてシンゴかもしれない
もしかしたらリンゴのおもちゃかもしれない
もしかしたら動くリンゴかもしれない
もしかしたら椎名林檎かもしれない
もしかしたらふにゃふにゃのリンゴかもしれない
もしかしたら干し柿的な感じの干しリンゴかもしれない
もしかしたらリンゴじゃなくてりんごかもしれない
もしかしたらリンゴっぽいサクランボかもしれない
果たしてこの作業が、考えるなのか妄想するなのか、想像するなのか
僕にだって分からない(笑)
でも、その妄想と想像の違いを考えたり
リンゴとりんごと林檎と🍎の違いを考えるだけでも
案外無駄なようで楽しいのかもしれない
結局、考えるって何だろう
その答えは、探せば必ず見つかる
でも、それを本屋さんに行ったり、ウェブで探したりして見つけるのと
自分の中でありったけの想像力と妄想力を使って、考えてから
自分なりの答えにたどり着くのとでは全然変わる
考えることをやめないようにしよう
3歳のときの、まだ当たり前が当たり前と認識していなかった頃の自分を思い出して
どんどん「考えて」みよう
考えるを考えるは楽しい