高知のかつさんのブログ見てて
ここ大阪も例外じゃないことを
訴えたい。

まず、南海トラフが目覚めると
東南海地震、南海のそれの被害は
甚大で言葉に尽くせないだろう。

四国、大阪湾、兵庫、三重、
愛知、静岡、複合なら、関東圏も、
沿岸部、臨海部はその被害を
避けられないだろう。

大阪を例に取ると
海抜ゼロ地域の港区、大正区
大阪府南部の地域まで
被害予想地域となる。

和歌山の我が尊敬する偉人の
ひとり、浜口梧陵も警鐘を
したように、もし揺れたら
規模に関係なく、まずは
正確な情報を収集する、
高台や高い建物に上がる、
などの対応は必要だろう。

大阪の臨海部には津波に対しての
整備は遅れている。
防災放送設備は沿岸部だけで
数カ所有る防潮堤は手動式の
場所も有る。地震の被害で
ねじ曲がった鉄板の防潮堤は
機械でも、ましてや手動では
動かない

平野部は海抜も低い為
発生すれば川伝いに高槻市まで
遡上すると言われている。

防災放送設備の代わりに
何があるかと言ったら
陸上自衛隊のヘリの
緊急放送と都心部の防災放送だけ。
冠水はマンホールからも発生する。
南警察署も昨日麻痺するだろう。
どうやって人員誘導するのだろうか?

今、大阪市内、特に都心部には
5000台以上の防犯カメラと
注意喚起のスピーカーが
配備されている。
3.11になぜ避難訓練を
大阪市はしなかったんだろう!


以下 人のブログネタ拝借御免。

『稲村の火』まんが日本昔話にも
登場した逸話。

 安政元年(1854)に広村(現在の広川町)を襲った大津波。浜口梧陵は被災した人々のために敢然と立ち上がりました。彼の活躍ぶりを描いた「稲むらの火」からは、当時の緊迫感がひしひしと伝わってきます。
 梧陵は、広村で分家浜口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子として銚子(現在の千葉県)に移り、家業であるヤマサ醤油の事業を継ぎました。
 たまたま彼が広村に帰郷していたとき、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。
 彼は、稲むら(ススキや稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、彼らを安全な場所に避難させました。しかし、津波により村には大きな爪あとが残りました。
 このかわり果てた光景を目にした梧陵は、故郷の復興のために身を粉にして働き、被災者用の小屋の建設、農機具・漁業道具の配給をはじめ、各方面において復旧作業にあたりました。また、津波から村を守るべく長さ650m余り、高さ約5mの防波堤の築造にも取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えました。
 その他にも、私塾「耐久舎」の開設、又藩政、国政にも様々な活躍をし、その功績をたたえる碑が広川町内の各地に建立されています。
 梧陵の精神は湯浅広川消防組合の防災の精神的支柱として受け継がれています。