あの「千石の帆掛け」と言う岩は、長年の風雨と日本海の荒波にさらされて現在の形をとどめているが、
江戸時代はおろか、室町、いや弥生時代、いやいや、石器時代からあの姿を今に伝えているのだろう。
ペネヨーズ列岩、ロウソク岩、12使徒、ロマンを感じる。
昔の文献によると、当時大陸からの文化、そして有力な勢力が丹後地方には存在し、丹後地方のあちらこちらに
遺跡や古墳が点在している。銚子山古墳(前方後円墳)もそのひとつだ。古代の人々は、これらの岩たちをどのような目で見ていたのだろう?「千石の帆掛け」もつい最近の名称のような気がする。
古代の人々にとって網野(現在は、京丹後市)はどんなところだったのだろう?
網野の呼び名の前は、確か、なんだったかな、、。
「千石の帆掛け」は、風雨の力だけで、今のような形にはなるはずが無い。
あの形は、今の水位が最低でも約4m多かったことを意味する。
否、冠島の海底遺跡と注目されている遺跡、はたまた与那国海底遺跡を考えると実は、古代の水位は、もっともっと低かったのかも知れない。
はるか昔、赤い髪に赤い顔の漁民達が、素潜りで、それも裸眼で海産物を採っているところを、都から馬でその地を訪れた豪族役人によって目撃されており、言葉はあまり通じなかったそうだが、「赤人」達は土産に魚を振舞ったそうだ。豪族役人は、いたく感謝し、米を少し「赤人」達に分け、この地の川の横に植えてそだてよ!と命じた。一年後、米が、実ったそうだ。
ところが、ある日、文字の読めない「赤人」らが大事そうに持っていた漂流物のひとつに、異国の文字で書かれた表札のような物を小屋の片隅のロウソク横に掲げているのを数年後に訪れた豪族役人が見つけて、事態は急変する。
つづく