櫛目文土器を巡る日本考古学会の誤りと海洋民族の岩宿人と縄文人
朝鮮半島に最初に登場した土器は縄文土器だったが、日本列島とは別系統の櫛目文土器が出現するのは約5500年前である。半島では縄文土器の出現から櫛目文土器の出現まで約1500年の開きがある。櫛目文土器とは櫛歯状の施文具で幾何学的文様を施した土器の総称である。
韓国では櫛目文土器こそ朝鮮固有の土器であるというが、それはあり得ない。櫛目文土器は約6000年前に支那北東部の遼河文明が起源で、その後、その土器の形式は北東アジアから北欧にまで及んだ。朝鮮半島に伝わったのが約5500年前のことで(韓国考古学では未だ一致した見解はない)、この土器の文化はそのまま日本列島に伝えられた。
日本の考古学ではこれを「朝鮮式土器」と呼び、「朝鮮半島との交流があった」などと説明することが多いが、誤りである。櫛目文土器は支那の遼河文明の土器であるから「朝鮮式」ではない。朝鮮半島に住んでいたのは縄文人(日本人)であるから、縄文人が自ら会得して列島に持ち帰ったものだった。
日本では西北九州を中心に、25カ所で櫛目文土器が出土していて、搬入されたものと日本で作られたものがある。その後、縄文時代後期以降は、九州でも櫛目文土器はほとんと出土しなくなる。
縄文時代の前の岩宿時代ですら、岩宿人は伊豆諸島の神津島から小舟で黒曜石を本州まで運んでいたことが分かっている。縄文人は自由に船を操って日本列島の島々を行き来していた。対馬から釜山に渡ることなど、いとも簡単なことだったろう。当時は国家や国境という概念はない。日本列島の縄文文化が、玄界灘を超えて朝鮮半島に伝播するのは、むしろ当然のことである。
日韓の考古学者たちは、朝鮮半島南部から縄文土器が出土することについて「朝鮮半島との交流」という言葉を使うが、不適切な表現というほかない。列島の縄文人と半島の朝鮮人が交流したのではなく、半島に縄文人が住み着いたということである。
—竹田恒泰著 天皇の国史p93~94