War against World Leader allied Nations.

〚攘夷戦争は我軍の勝利だ。自虐史観払拭!〛

※令和六年五月二十七日(海軍記念日)加筆修正。


「おそらく世界中で、日本以外に自給自足できる国は他にないであろう。日本は自国内に生活必需品や贅沢品のすべてを供給できるだけのものを十分に持っている。日本の田畑で、熱帯と温帯の産物が同じように生産されたものが、農家の納屋に貯蔵されている。」

「どの山脈からも石炭、鉛、鉄、銅が発掘され、貴金属もまれではない。茶、絹、綿、木蝋、油脂類が国内いたる所に豊富に算出され、朝鮮人参や他の薬草類が、塩魚や海草などと一緒にシナへ多量に輸出されている。」

(ロバート・フォーチュン 著

『幕末 日本探訪記』講談社学術文庫)


「描写がより慎重でかつ正確なケンペルもこう述べる。

「この国の鉱物資源は世界のどの国よりも豊かである。多くの鉱物資源の中でとりわけ豊富なのが金、銀、そして銅である。」

(チャールズ・マクファーレン 著『日本 1852・ペリー遠征計画の基礎資料』草思社)


 攘夷運動は無謀ではなかった。抵抗の意志と力を示したから独立は守れた。しかし、それを止めて「学ぶべきは学んだ」から今の日本がある。欧米列強は$1ドル銀貨4枚で一両小判(金貨)を3枚持ち出せる為替レートを押し付け、不平等条約を強要した。


 日本の金、銀、銅は豊富だったが、外国人による大量の持ち出しはインフレを起した。日本の物産はシルク(Silk)、生絲(きいと)の輸出が圧倒的に多かったが、菜種油、海産物、陶磁器や漆器(japan)などの価格高騰は庶民を困らせた。


 民衆の怒りが権力や商人に向かず、外国人に向けられたのは、やはり外国人、日本人の多くは

「毛唐」(Ketou)

と呼んだが、違和感があり、人種だけでなく、傍若無人な振る舞いが嫌われたからだ。当時は動物の肉を食べたり、女性が肌を露出させたりも嫌われたが、外国人は神社や仏閣に敬意を払わなかった。


 攘夷―排外主義の運動は徳川 将軍の軍政府を倒す(倒幕)運動と併行していた。


 過激派のサムライは外国人を刀で襲い、一部民衆は外国人に石を投げ、そして安倍の故郷、長州(山口県)はシルク貿易の重要ポイントだった関門海峡を通過する外国船を無差別に砲撃した。


 安倍の故郷は長州、現在の山口県。1864年(元治元年)、徳川幕府(「将軍」の軍政府)との内戦を戦いながら米英仏蘭🇺🇸🇬🇧🇫🇷🇳🇱の世界最強の連合艦隊の攻撃を受けていた。アメリカは内戦(Civil War)中でイギリス、フランスはChinaへの介入で多忙。連合艦隊司令官はイギリスのウィリアム・キューパー提督。旗艦『ユーリアラス』号は前年1863年(文久三年)の薩摩、現在の鹿児島県への攻撃で町を焼き払ったが、驕りから湾内に深入りして薩摩の性能が悪い砲台からの集中砲火を浴び、正副艦長が戦死…。薩英戦争には明治三十八年(西暦1905年)5月27日に対馬 沖でロシアのバルチック艦隊を殲滅した東郷 平八郎 元帥が薩摩藩の少年兵として参戦していた。東郷は海軍力発展の必要を痛感し、英国海軍(Royal Navy)に留学する。日露戦争に勝利する四十年以上前だった。


 長州攻撃の馬関戦争では『ユーリアラス』は最後方に配備。馬関戦争ないし下関戦争と呼ばれる戦いで連合艦隊は勝利し、砲台を占領。イギリス軍は陸戦隊を追撃に出したが、高杉晋作、山県有朋らが結成した身分を問わない「奇兵隊」「膺懲隊」と銃撃戦になった。この民兵Militiaの反撃で海兵隊指揮官のアレクサンダー大佐は負傷、死傷者が増え、深追いを避けた。


 停戦交渉でイギリス🇬🇧は「彦島」の租借を要求し、安倍の故郷に“極東のジブラルタル”を創るチャンスだったが、高杉晋作は拒否。賠償は払うが、『神の国』の土地は譲れないと世界の列強の前で大啖呵を切った。最悪は徹底抗戦すると脅し、この狂ったサムライの国への侵略は諦めさせた。なお長州の戦争をロスチャイルドと“八百長戦争”を演じて日本への経済侵略を誘ったと根拠薄弱な陰謀論を吐く者がいるが、長州は賠償を江戸幕府に丸投げし、幕府はのちに賠償を棒引きにしてもらい関税自主権を放棄したのが真相であり“八百長”の証拠は存在しない。欧米列強が主として絹 貿易の重要なルートにした関門海峡を封鎖しようとして砲撃した。


 各国海軍は長州の性能が悪い古い大砲を鹵獲し、戦利品として持ち帰ったが、キューパー提督は本国宛に、

「英国東洋艦隊の全兵力をもってしても長州征服は不可能」

と報告した。戦勝しても制圧は諦めた。


 長州は京都で幕府と京都御所の蛤御門で『禁門戦争』で戦い、どちらも敗戦した。幕府と外国の両方から“制裁”を受け、敗戦して追い返す…。奇妙な展開となるが、戦闘に勝っても“戦争”に勝てるとは限らない好例となった。但し列強諸国が要求した賠償金は徳川幕府が肩代わりさせられた。幕府はのちに賠償放棄と引き替えに関税自主権を放棄した。

(渡辺 惣樹 &茂木 誠 共著『教科書に書けないグローバリストの近現代史』ビジネス社)


 列国は日本を占領するよりも武器市場にする方が得策と考える様になった。イギリスは薩摩、長州を軍事援助し、フランスは徳川幕府と薩長などの倒幕軍の両方に武器を売った。官軍にはミニュー(Mineu)銃、徳川 将軍の軍には最新式のシャスポー銃を売った。フランスは常に両建主義だ。


『本当は勝っていた!薩英戦争、馬関戦争』(歴史通)『フランス士官の下関海戦記』(新人物往来社)、🇫🇷フランス海軍のアルフレッド・ルサンは苦戦の実態を記録した。🇬🇧イギリスの外交官、アーネスト・サトウが記録した『一外交官が見た明治維新』(岩波文庫)、その他の資料がある。

https://x.com/toranpu20/status/1795310998846603721?s=09