https://youtube.com/watch?v=cti0LDgbqpM&si=xf099ubDlJ0nziVJ

〚日本の中のコリアンタウンの由来〛

Why many Korean settled in Japan?!

[彼らは何処から来て何処へ往くのか?!]


 日本にコリアンが多い事情について恰も“奴隷労働”の「強制連行」の結果であるかの様なデマゴギーがマスコミで横行する。その虚偽を指摘されたら統治政策に話をすり替える。日本合邦以前の朝鮮民衆は土地の占有権もなく米は食えなかった。周知の方々は多いが合理的な資料を紹介する。


「韓国併合以前、朝鮮半島は窮乏と混乱の中にあった。国民の大多数を占める農民は、自給自足の原始的な生活を送っていたし、貨幣制度の未発達により国内商業は長らく停滞していた。産業についても小規模な家内工業ばかりであり、近代的工業は、その萌芽すら見出すことが出来ない状態だった。そもそも、近代国民国家のベースとなる「国民」意識を住民が持っていたかも怪しい。つまり、歴史的区分で当時の朝鮮半島を評するなら、まさに「中世」と言えるだろう。」

「朝鮮半島が近代化の端緒を掴むのは、一九一◯年のことだ。韓国併合である。この時 一三◯◯万弱に過ぎなかった人口は、日本統治の終了までに三◯◯◯万強へと激増している。教育・医療・食糧生産など各分野において、貧困の半島は目覚ましい発展を遂げたのである。」


「しかし、マルサスが『人口論』で述べるように、いくら食糧生産が伸びたところで、人口の増加に追いつくことは出来ない。また、農村の余剰人口を吸収するべき都市の近代工業も、いくら日本が莫大な投資を行ったところで、まだそれだけの段階に達することは出来なかった。李氏 朝鮮統治による数百年の遅れは、いかんともしがたかったのだ。」

「では、食にも職にも窮した貧しい朝鮮人は、どうしたのか。当然のことながら、彼らは絶望の半島を捨て、国外に活路を探した。十九世紀以降、半島北部の人間は中国東北部やロシア沿海州へ移住していたが、韓国併合により、半島南部の人間にもようやく生きるチャンスが与えられたのである。併合以後、日本に在留する朝鮮人の数は急激に増加していく。」


「内務省警保局資料によれば、併合翌年は二六◯◯人。一九一四年からの第一次世界大戦により日本経済は飛躍的な伸びを見せるが、未曾有の好景気を背景に朝鮮人は着々と増加し、大戦終結の一九一九年には三万人に迫ろうとしていた。日本側としては、逼迫する労働需要に安価で応えてくれる朝鮮人は非常に魅力的だったし、朝鮮人もまた、新天地 日本に期待するところ大であった。貧困によって押し出され、繁栄によって引き寄せられる。この二つの要素が車の両輪となって、朝鮮人の急増へとつながるのである。」

「関釜連絡船は半島本土から日夜大量の朝鮮人を運び、また済州島からは大阪への直航便が就航した。かくして終戦の前年の、日本在住の朝鮮人は約二◯◯万を数えるに至った。」


「こうした巨大な人口移動の流れの中、日本各地に朝鮮人の集住地域が形成される。その代表例が大阪 猪飼野である。君が代丸の就航により、済州島と直結されたためだ。関釜連絡船を経て各地の土木工事などに携わり、最終的に大阪へ辿り着いた本土出身者もいたはずだか、その大多数は終戦と共に帰国したとされる。」

「在日韓国・朝鮮人の中で済州島出身者の構成比率は高く、彼らの渡日志向の強さを雄弁に物語っている。また、東京にも同様の済州島出身者の街として荒川区三河島があり、両者ともに、

「在日の街」

の代名詞的存在である。」


「一方で、河川の改修や港湾の埋め立て、炭鉱、軍需工場での単純肉体労働などに従事していた半島本土出身者も、やがて日本各地で大小の集落を作り、定住生活を始めた。いまもなお彼らとその子孫が残る街としては、川崎をはじめとする東京湾臨海部や、京都、尼崎、名古屋、福岡、小倉、広島、下関などが挙げられる。ただし、ダム建設や鉱山開発など、山間僻地の土木工事跡で限界集落を形成しているケースも見られる。」

(山野 車輪 著『韓国のなかの日本』辰巳出版。晋遊舎、海人社など他社からも在日韓国・朝鮮人の居住地域、漫画「嫌韓流」シリーズ等著書多数)https://youtu.be/3oiac2pyvqs?si=51tovGTYQO-7u973


岸田首相と、売電民主党とのタッグ意外の反グローバリスト組織を全て検閲停止した!亜米利加合衆国軍産複合乗っ取りオレンジ計画組織を世界中が許すまじ!!