マクルーハンを読むにあたって、井坂さんのドラッカー入門が、きっかけとなった人も多いと思う。
p65 ドラッカーとの対話 から、読み進めていただきたい。
ある夏の嵐と雷の真夜中の一時、の、エピソード

p67 事象の裏にある「見えないもの」を見る
ほとんどの人が17世紀の科学革命・技術革命は見ていたが、それに先立つ人間の変化は見ていなかった。だが二人はそれを見ようとしていた。ドラッカーもマクルーハンも、図ではなく地を、動力因ではなく形相因を見ていた。
 技術とは、自然に関するものではない。人間のものである。
 技術とは、人がいかに生き、いかに考えるかに関わることである。
 技術は人間の延長であるがゆえに、その基本的な変化は、つねに、人間の世界観の変化をもたらす。技術の変化は、人間の価値観を変えていく。

井坂によれば、ドラッカーの技術観は、一貫して西洋の近代合理主義への批判的視座に貫かれており、それには人間社会を尊重する彼の価値判断が明瞭に示されているという。
 彼が企業の技術革新を語るとき、必ずそこには「人間」が主役にいた。技術は効率や生産増大のためではなく、「人がいかに働くか」のものであった。
 こうしたドラッカーの技術観・知識観に決定的な影響を与えたのが、技術を人間の身体機能の拡張としてみるマクルーハンの「メディア論」であったと井坂はいう。マクルーハンのいう技術やメディアとは、人間が創り出した概念を含む人工物にまで拡張したものである。
 そうしたものとして書かれたドラッカーの著作はどんなに技術環境が変わろうとも古びることはないだろう。

ここまで読んで、なぜか、目頭が熱くなってくる。
ドラッカーもマクルーハンも、わたしたちのこれからを慮って(おもんばかって)、どこまでも、謙虚に、そして、考えさせてくれている。
それは、井坂さんのわたしたちへの思いとも通じるものとして、知の泡風呂、知の温泉♨️に誘う(いざなう)ものだからかも。

わたしたちは、これからの生き延びる生活の中で、これからの学びを活かしていくことが、三人の思いに応えることになるでしょう。
ありがとうございます😊