XXXXXXXXXXさん2011年05月18日 06:45
ある日、人間全員が死んで意識する人が居なくなっても、太陽は次の日も存在します。


★こぶたちゃん★2011年05月18日 22:27
哲学を学ばれたことはあるだろうか?

ここで挙げたのは一つの考え方である。
ある哲学者の理論だ。

学者の名前は失念した。でも確か有名な学者の話だ。

「存在」をこう考える。

あるものがそこにある。それを知覚しうるものがいて、
客観的にその「ある」ことを認識、証明されて初めて、
それが「存在」するという考え方である。

例えば、あなたが言う「太陽は存在する」ですが、
太陽が存在するのは、
我々が太陽の存在を知識として知り、
朝日をみて、経験としてあることを知り、
そしてその情報を人々と共有しあうことによって、
太陽というものは「存在」するのである。

逆に言えば、我々が太陽を知らず、
太陽を目に見、肌に感じることがなく、
また「太陽」という言葉を知らずして、
人々と語り合うことができなければ、
誰も太陽の「存在」を確認することはできず、
故に「存在」しないのである。
性格には「存在」する状態にないとでも言えばよかろうか。

もちろん我々が知覚する、しないにかかわらず、
あるものはある。

でもそれを知るのは、
我々がそれを知っているからであり、
かつそれを知る我々が存在するからである。

視点を変えてみる。

例えば、神や悪魔の類はどうだろうか。
我々はそれを知るが、その存在を否定するものも多い。

信仰あるものは、その価値観によってそれを認識し、
そして存在すると認める。

そうでないものはその証明なきをもって
それの存在を否定する。

言いかえれば、認識と証明をもって
その「存在」を主体が決定するのである。

しかし、我々は知識無きゆえにその存在の真なる是非を知らない。

逆に言えば、知識無き者にとっては
太陽も同じくして、「存在」が儚いのである。

また例をあげよう。

例えばマトリックスの世界はどうか。

現実世界では存在するもの。
しかしそれが単に我々の感覚器に投影された、
情報、外的刺激であるならば、それは「存在」しうるのか。

我々が近くせずとも太陽は存在する、
そう主張するものは、そうした情報刺激は「存在」しない
と考えるだろう。
或いはそれを「存在」とは言わない、と主張するだろう。

しかし、それが「存在」しないことを
どうして認識できるだろうか。
或いは、それが幻影ではあることを知らないものは
「存在」を認識できるものなのか。

ややこしい表現で紛らわしいので
端的に言いなおそう。

ここで言う「存在」は、
「存在」を懐疑的にアプローチすることによって、
「存在」の真実に歩み寄ろうという哲学、思考なのである。

つまり、
我々がいう「太陽は存在する」という認識を
科学的知識から「こうに違いないと決めつける」のではなく、
実際はこうではないかと疑うことから、
アプローチする進行形の思考なのである。


XXXXXXXXXXさん2011年05月19日 18:15 
なんかむずかしいですね。
言わんとすることは分かるよな気がします。
証明する方法があります。
人類皆さん寝ます。
寝てる間知覚する人なし状態です。
寝る前にビデオカメラを設置して月を撮影して次の日に起きて再生するってのはどうでしょう。
私は死後の世界は有る無し二元論ではなく、
空(あるとも言えず、ないとも言えず)の概念で考える必要があるんじゃないかな、と思います。
たとえば美の価値や権力とか魅力とかは、ないけどあります。
生命が宇宙に溶ける?感じになるんじゃないでしょうか。
生命もあるともいえず、ないとも言えず、だと思います。
エリクソン?失念しましたが、ある哲学者が、脳は生命の活動する場、と表現しましたが、私は一番それが納得できました。
生命というのは、
種に水をあげると生えてくる力?あれです。
魂とか霊とか胡散臭いのじゃなくて、
宇宙にある力です。
アスファルトの隙間から、雑草が生えてくる不思議な力みたいな感じです。


★こぶたちゃん★2011年05月19日 20:21
ご理解していただけなかったようで・・・

ビデオカメラを設置する人は、
そもそも「月」をどうやって知ったのでしょうか。
「月」を撮影しようとビデオを設置した時点で、「月」を認知していますよね。
そして、そのビデオを確認する行為そのものが「月」をそもそも知覚している
ことを前提条件とした行為です。

では仮定しましょう。
我々が現在知覚していない、
月以外の第2の地球の衛星があるとします。

我々が「月」を撮影しようとビデオを設置します。

しかしビデオにはその第2の衛星が映っていなかったら?

あるいは、仮に映っていたとして、しかしそれを我々が認識していなかったら?
我々が意識しなければ、その第2の衛星が現にあったとしても「存在」しないと等しいのです。
はじめて誰かが発見することで、それは「存在」という状態を付与されるのです。

それから、XXXXXXXさんの説は一つの認識、考え方としてはありなのでしょうが、
基本的には、「結論からの逃避」です。
すごく抽象的で、オカルト(神秘主義)特有の「表現による論理のごまかし」
に走りっている感じがしました。

それに「空」の概念がよく意味がわかりません。
「あるともいえず、ないともいえず」とは、
言うなれば「可能性」レベルでの結論の帰結にすぎません。

僕が言うのは、「可能性」を論理により、「結論」レベルまで導こうとする動きこそ
哲学であると言っており、

その「結論」はあくまで「答え」、極端にいえば「真実」ではありません。