現代のパレスチナ問題を考えてみようと思います。

パレスチナとは
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レバノンシリアヨルダン
エジプトシナイ半島に囲まれた小さな地域でユダヤ教、キリスト教の二大宗教が生まれた土地でもある。

現在はほとんどがイスラエルの領有となっており、ガザ地区とヨルダン川西域でパレスチナ自治政府が統治している。

16世紀から400年ほどはオスマン帝国が支配する地域だったが、第一次世界大戦後はイギリスに委任統治された。

イギリスはこの地を有効活用するため、戦後パレスチナを利用した外交を狡猾に行う。フランスとは中東を両国で分割する「サイクス=ピコ協定」、アラブ人にはアラブ国家の独立を認める「フセイン=マクマホン書簡」、ユダヤ人にはパレスチナに民族的な郷土の建設を支援する「バルフォア宣言」を出す。これらの「三枚舌外交」はロシア革命後、レーニンに全て公表され公になっています。


⇩この人物がイギリスの外務大臣 アーサーバルフォアさんで
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三男のネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの曾孫にあたるロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で、イギリス政府のシオニズム支持表明が「バルフォア宣言」です。

今日7月25日がそのバルフォアさんが生まれた日なんです。


長々なってますがこのバルフォアさんの宣言が後のパレスチナ問題を生んだということで、こんなブログになっています。

興味のない方はここで終わるとキリがいいですよ。

























ここまで来ていただいたということは、貴方、、、、、



さては、、、






歴史好きですね照れ






では続きを始めましょう!




1920年代を過ぎると、イギリスに反抗するユダヤ人テロ組織やアメリカの圧力に屈してイギリスはパレスチナにら関する問題を国際連合の仲裁に委ねることになる。

第二次世界大戦が終わって1947年、国際連合はパレスチナの土地を56.5パーセントをユダヤ国家、43.5パーセントをアラブ国家として、エルサレムを一国支配でなく国際管理とする決定を下しました。
これにアラブ人は拒否を示したが、イギリス軍の撤退とともに、合意を得ないままユダヤ人が進軍し、イスラエルの建国を一方的に宣言したのです。中東戦争の始まりです。

すぐに決着がつくだろうと思われていた中東戦争は、アラブ側の内部分裂の影響もあり長引き、イスラエルは人口の1パーセントを戦死させながら辛くも勝利する。このとき、イスラエ建国に伴いパレスチナに住んでいた約80万人のアラブ人が、住む場所を失い難民となり「パレスチナ難民」と呼ばれるようになりました。

さらに1950年に施行された「不在者財産没収法」により、一時的に家を離れていただけなのにアラブ人達の財産は取り上げられ、これらの財産や家屋、土地は入植したユダヤ人に与えられることとなったのだガーンその数は2006年には約440万人を数えるまでに、、、


イスラエルとパレスチナの不和は解けることなく、1987年、第一次インティファーダが始まる。これは1993年ごろまでのパレスチナ問題における、一連の暴動事件などの総称です。

当初はパレスチナ人少年によるイスラエル兵への投石だったが、暴動は激化し、火炎瓶や手榴弾、銃や爆弾も頻繁に使われるようになる。

この暴動は、圧政に苦しむパレスチナ人が石を投げ、イスラエル人が最新兵器で制圧するという構図で報道されたため、国際世論がイスラエルを、激しく非難する結果となり、1991年にはスペインで和平会議が成立した。


2000年9月、現在も続く第二次インティファーダの動きが始まる。

すでに石を投げるなどというレベルの争いではない。現在、イスラエル軍は前回の教訓からインターネットを使った情報によって世論を味方につけながら作戦を展開し、対してパレスチナ人は若者や女性が自爆テロを敢行、お互いの死傷者は増える一方。パレスチナをめぐる長い戦いは出口が見えず、今なお続いていて、犠牲者は絶えない。


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先日27時間テレビでナオトインティライミさんが100曲歌いきるライブで「最後はこの曲を歌うと決めていた」と歌ったのが今月亡くなった永六輔さんの「上を向いて歩こう」でした。
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ナオトインティライミさんは世界を放浪していた頃にナント!?

パレスチナ解放機構(PLO)の
ヤーセル・アラファト議長の前で世界平和を願って上を向いて歩こうを歌っていたと聞いてビックリしました。


マスターの記憶に残っていたのが
1993年の調印されたオスロ合意
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左:イツハク・ラビン首相と右:ヤーセル・アラファト議長がビル・クリントン大統領と調印をした決定的瞬間です。

イスラエルとパレスチナが平和に最も近づいた瞬間のはずでしたが
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残念ながら1995年11月4日イスラエルの和平反対派の青年イガール・アミルに銃撃され死亡したことで和平が遠のく結果となってしまった。

早く中東の本当の平和が来ることを願います。



長々ブログにお付き合いいただきありがとうございます。
最後まで観れた方だけが知っている
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秘密のコード:ノーベル平和賞

と言ってもらえたらドリンク一杯サービスしますね。では本日もよろしくお願いしますバイバイ

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