日記11/8【双石小屋の歴史】


昨日のレポート同様、かなり、かなり長いですが、最後までお付き合い頂けると幸いです。


宮崎県宮崎市にたたずむ双石山509.3m(ぼろいし山)には山小屋がある。
その名を「双石小屋」と言う。
双石小屋は第二展望所と山頂の中間に位置し、多くの登山客の憩いの場、情報交換の場として愛され続けている。

私が双石小屋の歴史に興味を持ったのは「この小屋は二代目だからね」と言う師匠の一言から始まった。

初代双石小屋とはどんな姿だったのだろうか?
初代、二代目はいつ頃建てられたのだろうか?
こんな低山(509.3m)に、どうしてこんな立派な山小屋があるのだろうか?
いろいろな疑問が湧き出て来た…

インターネットで情報を収集したり、図書館で調べたり、山の大先輩方から当時の話を聞いたりして私なりに調べていたが、数十年前の山小屋の歴史(特に正確な年数)は、わからなかった…。

そんな中、久しぶりに図書館に行った時にたまたま手に取った本の中に、初代双石小屋と二代目双石小屋の記事を発見した。
それは【山恋】という宮崎山岳会の投稿文集である。

正直、感動で手が震え、涙が込み上げて来た。


先に、結論から申し上げましょう。
(山恋の記事は最後に記載する)



【双石小屋の歴史】

1957年(昭和32年)
初代、山小屋完成
「双石山の家」と呼ばれていたようだ。
吉田徹さんの肝いりで、宮崎営林署の方々、市内各山岳会の方々、多くのボランティアの方々の勤労奉仕により造られる。

1962年(昭和37年)
山小屋の補修を行う。
利用者が増えて、心ない登山者に見る影もない程荒らされてしまっていたそうだ。

1991年(平成3年)11月24日
初代、双石小屋解体開始。
この日、午後から、双石小屋再建の為、解体作業に入る。

1991年(平成3年)12月
2年前から再建運動に取り組んできたが、資材運びがこの月から始まった。

1992年(平成4年)7月31日
二代目、双石小屋建設中。
基礎工事は全て完了し、全体の70%が完了する。
大工さんの中に、久島さん、川崎さんという方がいらっしゃった。

1992年(平成4年)11月吉日
二代目、双石小屋棟上げを行う。
丸太のせいもあり難儀する。
現在、二階の梁の部分に上棟札がかかっている。

1993年(平成5年)3月7日(日)
ついに二代目、双石小屋完成。
UMKテレビカメラが入り、皆で万歳三唱をする。

2015年(平成27年)1月
年明けすぐに、山小屋周りのベンチの改修が入る。第二展望所ベンチの増設、第三展望所のベンチ設置、山頂のベンチ設置、山小屋の外壁の隙間埋め等、数ヶ月に渡り、川越さんをはじめとして、ボランティアの方々により完成する。


それでは、初代、二代目の山小屋を写真で見てみよう。

カラーは2015年、平成27年11月7日に撮影。
白黒は1971年に撮影。

登りから撮影

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下りから撮影

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入口

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表札

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二代目の一階

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初代の一階

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囲炉裏

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囲炉裏上の排煙フード
(中俣ステンレス工業寄贈)

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二代目の窓

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初代の跳ね上げ式の窓

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二階へ

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二階

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二階の梁

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上棟札

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一階備品(羽釜、鍋、シュラフ等)

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建設、再建に携わった方々のプレート

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双石小屋注意点

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長寿の心得

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双石小屋の裏のテラス

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双石小屋裏

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双石小屋近くのトイレ跡

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※初代双石小屋の写真は山の先輩mutさん提供。
転写許可ありがとうございます!

http://mutumi48.exblog.jp/23193894/


実は、多くの登山客は双石小屋とは呼ばず、【山小屋】と呼んでいる。
私もその中の1人である。

しかし、今回の記事では、小屋の建設、再建に携わった方々、そして、この小屋自体に、感謝と敬意の念を込めて【双石小屋】とあえて記載している。

【双石小屋よ…ありがとう…】


この記事を見て下さった多くの方々が、双石小屋に、そして双石山に興味を持って下さる事を願う。
そして、これからもこの双石小屋をその歴史背景を思い浮かべながら、大切に大切に利用して頂けたらと思う。


最後に…
宮崎山岳会の【山恋】の記事を紹介しよう。
では、どうぞ…。

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「双石山の家」を補修しよう
(山恋02号、1962年、昭和37年)

私達が久しく馴染んで来た「双石山の家」は1957年(昭和32年)、吉田徹さんの肝いりで宮崎営林署の御好意と会員諸兄姉並びに市内各山岳会会員の、勤労奉仕によって出来た貴重な山小屋であります。
以来、観月登山の宿営となったり、花火大会を眺めたり、例会登山のベースであり、午睡の場ともなり、数々の思い出を醸しています。
然し最近頓に利用者が増えて心ない登山者に見る影もない程荒らされて、私達にとっては我が身を切られたような悲しみを味わっています。
山小屋の尊さは冬山の経験者は勿論、豪雨に遭った折など痛切に感じていらっしゃるでしょう。
今年も雨季を前にして私達の汗の結晶である山小屋を補修しようと思います。詳しい計画はいずれ理事会で決定の上発表されますから、何卒万障繰り合わせて参加下さい。
私達の「双石山の家」が美しい姿で我々を迎えてくれる日の一日も早からん事を念じつつ…。




「双石山小屋再建に思う」
(山恋32号、1992年、平成4年)
仲宗根 陽一

90年度の総会も終わり、新年度の活動を始めようとしていた矢先のことだったと思います。
石井邸で91年度の例会山行計画を立てていたところへ、伊集院さんから「双石小屋の再建に協力してほしい。」という内容の電話が入りました。その1年ほど前から時折、山小屋再建の声を聞いていたのですが宮崎山岳会として何ら具体的なアクションを起こさずにいました。
また、すでに再建費用として50万円が市の予算に計上されており、早く着工するか否かの判断をしないと予算が流れてしまうという話も聞いていました。「予算が流れるから早く決断しろというのも一方的で無茶な話やな」と内心思っていましたが、もしここでこの話を断ったら双石の山小屋はこのまま朽ち果てるのは間違いないし将来再建の話が再び持ち上がっても実行に移すのは非常に難しいでしょう。今が最も良い機会なのかもしれません。大崩の山小屋再建の時、宮岳の多くの人たちは再建に反対していたと思います。私もその1人だったのですが、その理由は次のようなことではなかったでしょうか。
1、現在の場所に山小屋を建てる必然性がない。(緊急避難場所とはなりえない)
2、我々には必要ない。テント、岩屋を利用する。(実際、未だに利用したことがない)
3、多くの人が入山することによりゴミが増え山が汚れる。(山小屋建築そのものが自然破壊行為)
双石の山小屋も全く同じことが言えるのではないでしょうか。
必要性という観点に立って言えば、双石の山小屋は不要ということになりそうです。「宮崎市民の憩いの場として利用されればいいじゃないか」と異議を唱える方もいるかと思いますが、なぜ我々がそこまでしなければならないでしょうか。
むしろ、30年前、宮崎山岳会が中心となって山小屋を作ったという事実に対して責任を果たさなければならないと思います。
さて、設立準備委員会のメンバーとして宮岳の外から小島さん(市役所)、鳥井さん(岳連)に加わっていただき具体的内容を詰めていきました。
ここでの基本的な考え方は、宮崎市の山岳団体が中心となって実行委員会を形成し、あくまでも宮岳は提案者に過ぎないということでした。最初のうちこそ宮岳が中心となって活動しなければならないこともありましたが、今では実行委員会が中心となって活動しています。中でも、松崎さん(市役所)の力によるところが大きく、資金調達、設計、基礎工事、営林署との折衝等、ほとんど全てをカバーしてくれました。もし松崎さんがいなければ、これほど順調に事が運ばれなかったでしょう。
その一方で実行委員会発足当時には色々苦労がありました。資金の目処は立っているのか、関係部門の許可はどうなっているのか、実行委員会の組織をどうするのか、など色々な意見が出され、その度に頭を悩ませていました。
しかし、案ずるよりは産むがやすしとはよく言ったものです。関係部門との折衝は気長に根気よく行ってクリアし、資金も多くの人達の協力により順調に集まっています。
今現在(1992年、平成4年7月31日)、基礎工事は全て完了し、あとは材木の切り出し運搬、棟上げと作業が続く訳ですが、ほぼ全体の70%が完了し、ようやく頂上が見えてきたと言えるのではないでしょうか。
高校総体や富士山登山と何かと忙しい年ではありますが最後まで気を抜かずに頑張っていこうと思います。
また、皆さんには色々と迷惑をかけることもあるかと思いますが、今後ともご協力のほどよろしくお願いいたします。




「山小屋再建」
(山恋33号、1993年、平成5年)

双石小屋の話を聞いたのは30年前、私が中学生の頃だったと思う。ダークダックスの「山男の歌」等が流行りハイキングにワクワクしていた。
姉達から聞いた、何でも、山好きの人々のボランティアで建ったという話だった。
その後私も登るようになり、日帰りなのにハンゴーや米を持って行って1人囲炉裏で炊いて食べていた。
帰省して間もなく30名程度で補修をしたが、その後は材料が古過ぎて補修も出来ない状態だった。私が理事長をしている時にも再建の話はあったが、「やった方がいいよ」とか、「やればいいのに」という掛け声だけだった。
『やる人は大変なんだよ、「自分がやる」という人が何人も出てこないうちはやれません』という気持ちで聞き流していた。
資材は全部持ち上げなければならないし、それも日曜日しか出来ない。
その上毎週は休めないし他の山行や行事でもつぶれる。
ところがある時、仲宗根君達から「やろう」という声が出てきた。私としては理事長の仲宗根君は会の山行の中心になって、小屋の方は会長の田村くんが中心になってくれればという気はあった。小屋の方の役員になっていないので充分にはわからないが、最初は多くの人が集まっていたのが後の方ではある程度の人数が熱心に参加していたように感じた。
その中でも何といっても頑張ったのは市役所の松崎さんだろう。すごい情熱で、その姿にまた周りが引きこまれたところもあった。
1991年、平成3年11月24日午後から旧山小屋を取り壊した。私は基礎工事のあたりは何かと用事が重なって出席率が下がったが、材料担ぎの方ではまあまあ参加出来たと思う。仕事も「今、日曜日は都合が悪いんですよ」を、口癖にし、それが今回はよく通った。家族とも時々は出かけた方がいいと思いはしたが、今は小屋作りが大切だと小屋の方を優先させた。
宮岳の方も仲宗根君達は今は双石山の方を大切に、ということで会の山行をつぶしたりもした。材料担ぎばかりでは皆の志気が上がらない、早く棟上げをして形を作りたいという事だった。しかし材料作りは盛り上がっていた。コロニアルやベニヤ板を運び、小屋につくと今度は切り倒した丸太担ぎだ。登りで丸太が下がるので、1人はロープで引っ張り4~6人が担ぐ格好で繰り返し運び、チェーンソーで縦割り、カンナかけ。午後からの丸太担ぎは昼食のビールのせいで心臓がドッキンドッキンとしてきてきつかったりもした。
力仕事にむいていない人は皮剥ぎや、切り屑の片付け等々皆よく働いていた。
そして何といってもハイライトは棟上げだ。谷の方で作業していたが、人がいなくなったと思って上がってみるともう大勢の人が集まって棟上げが始まっていた。組み立ては丸太のせいもあるのか、うまく合わなくてチェーンソーを多用した。そしてもう時間がないと、せんぐまき。鈴木商店からのプレゼントが沢山あった。
その後はコンパネ貼り、コロニアル打ち付けと、初めてやる作業が面白かった。壁や床の板張りも寸法合わせがなかなかだった。こうしていると、岸本君が色々と器用で、牟田君がアルコール漬けになりながらも丸太の切り倒しで頑張ることがわかった。消防団の岩切、渡辺両氏は何につけてもプロ級だったし、料理も得意で皆に何かと振る舞っていた。忙しい鳥井さんも重い荷物を担いでいたが、大きいコンクリートますを運んでいる時は44kgと言うと「急に重くなった」と笑いながらも上まで運ばれた。こんな光景はキリがないのでこの辺にしておくが、中俣ステンレスが寄贈された囲炉裏の上の特性フードも見事なものだった。小屋の外にも2カ所イスとテーブルが出来たし、第二展望台にまで作った。
1993年、平成5年3月7日、「いよいよ完成」ということでテレビカメラの前で万歳三唱をする。UMKだけが来られたので私が写したビデオはNHKに持って行って放送してもらった。いよいよ一般に開放。この日山で会った人には、できれば小屋に寄って行って下さいと言った。今後役員の方々は礼状や芳名板と仕事が沢山残っている。
しかし皆さんよく協力してきた。普段は自分の会だけで、他の人達との交流はほとんどないが今回は宮崎の山好きが、各方面から集まってかなり交流ができた。無報酬で忙しい中、都合をつけては集まり労働をしてきたし、資金集めも各自大変だったことと思う。この1つの事をしてきたことによって出来た信頼関係は貴重だと思う。今後に繋ぎたい。
ボランティアの場合、もっとやれと文句を言うようなものではないと思う。少しでも本人の意志でやってもらえれば皆が「ありがとう」と思う、そんなものだろう。各自の積み重ねで出来てくるものだから。そしてどうすれば尚良いかといろんな意見が出る。それは再建するのに各自が少しでも良い方向に向かわせる為に、知恵を出し合うのだから大切なことだ。そこで気をつけたいのは人の意見も大切にすることで、間違っても「こうだ」とか、「こうしなさい」と言ってはいけない。「こうした方がいいと自分は思う」とか「こうすべきと思う」という人の意見を尊重した謙虚さが大切だ。
建設にあたり思う事は、今荷物を担いだり、釘を打ったりしている人の為に、建てるのではない、ということだ。またこういうことをする力のない人達の為にやっているのだ。自分が昔そうであったように、あまり山に登ったことのない人や、あまり難しい山へ行けない人達が心をワクワクさせて使う所。そして双石といえば皆で建てた「山小屋」という「名所」がある、ということで多くの登山者の楽しみが増えることになれば有り難いと思う。その為には案内場の整備をしたい。そして立ち寄った人が、多くの人の好意で建った小屋を見たり使ったりしてそれなりのことを感じてもらえたらしい。
いや皆さん、お疲れ様でした。