STUDYUNIONと僕(1) | 誰でもやれる革命

STUDYUNIONと僕(1)

SUと僕 その1 
<STUDYUNIONが立ち上がるまで 1>

思えばもうすぐ20年になろうとしているこの活動。
今回は、どうして僕がこんなに継続しているのかを考えてみました。

これは、目立たないところで同じように、しつこくささやかに
活動をしている非営利のNPOの方々(自分の資金を出してやってる方々)
にも、どこか共通しているのかもしれません。

久々にあった友人や先生に、STUDYUNIONの話をすると、
「まだそんなことやっているのか」といわれることがあります。
そして
「どうしてそんなにこだわるのか」と聞かれることもあります。
理由は簡単です。
「こういう生き方しかできないから」です。

高校生時代も含めて、学生時代は自由奔放にやらせていただきました。
たとえば、複数の学生運動団体の体験、複数の新興宗教団体の体験、
体育会系サークル(ワンゲル)で学んだ数々のこと、
大阪-長崎までの短期自転車走行、文化学術アソシエーションの立ち上げ、
同人誌の発行と販売、司法試験受験の失敗、海外自転車旅行、
その他数々の奇行(路上石ころ売り、同性愛への挑戦など)・・・・・

今の若者と大きく異なるもう一つの点は「恋愛厳禁」が
かっこいいと思っていた価値観かもしれません。
そういう事はやることを思いつかない暇な人がやるものだ、
と真剣に思っていました。

ですから、いわゆる「お付き合い」というものはしたことはありませんでしたが、
女性との心中未遂事件なら起こしたことがあります。
これはいまから思えば浅はかな笑い話ですが、周囲に迷惑をかけた事件でした。
長くなりますので、別に書くとしまして・・・。

おもえば現在の活動の基本形は全て学生時代にやっていたかもしれません。


しかしそんな、学生時代も終了。就活の時期を迎えました。
学内で立ち上げた団体は、卒業と共にはかなく消えることをようやく痛感しつつ、
社会を変えるための活動に、大きな挫折感を持ちました。
変える対象であった社会は、思っていたよりもっと違う、巨大な何かであった
ということに遅蒔きながら気がつきました。

大学1回生では、複数の学生運動団体に順番に「体験入隊」させていただいたせいもあり、
その頃の僕は、資本主義社会に対する単純な敵対意識に燃えていました。

そういうわけで、企業に就職することは頭になく、それから大学院進学も
うまくいかなかったため、

「北へ北へと移住しながら、生きられるところまで生きる詩人生活を送ってみよう」

と思い立ちました。

そういうことで、連絡をすることもなく、卒業間近の2月、京都へ移り住みました。
左京区修学院。住所が気に入ったので、そこに安いアパートを借りて住みました。

「自分が自由に使える時間をたくさん持っている人が豊かな人だ」
そう考えて、一生をアルバイトで生活しようと思いました。
しかし、アルバイトというのは経済的には弱い立場に置かれます。

近くにあったビデオレンタル屋さんで適当に働くだけでは月に7万円ほど。
家賃は1万8千円(お風呂は無し)。
生活費を差し引けば、かなりきつい生活です。

灯油を買うお金は無かったので、ファンヒーターは売ってしまい、
オーブントースターで暖を取っていました。
健康保険証はないので、病気や怪我は厳禁。
だから、毎朝軽くジョギングや筋トレをしていました。
ジョギング途中にあるパン屋さんでは、パンの耳を20円で
売っていましたので、それは重宝しました。
パン屋のおばさんはいつも黙って笑って用意してくれました。
読みたい本はたくさんありましたから、時間を持て余すこともなかったです。

その頃に書いた詩を読み返せば、
当時の感覚が、今でも戻ってきてくれます。
一番きれいに生きていた期間だったと思います。
今思い返すと、本当にそういう期間があったことをうれしく思います。

しかし、1年もすると、何かが違うような気がしてきました。
そこでさらに北へ移住することも考えましたが、
何となく、妥協点を探すことにしました。
<社会>との妥協点です。

アルバイトを増やしました。塾講師の仕事です。
アルバイト生活も、こうして職種を増やしていけば安定した職種に
なりうると思いました。(→後の「ネオフリーター論」へ)
そして、友人の何人かと連絡を取りました。

すると、友人の一人が
「家賃や光熱費は全額持つから一緒に住もう」
というので、そうすることにしました。

今から考えてみれば、本当に有り難い話です。
しかし、当時はそれが分からず、
成り行きでルームシェア生活(というより居候)が始まりました。


=長くなってきたので2へつづく=