小宮スタジオ2年のゆいです。
私は、ウィーンを訪れる前、ウィーン世紀末の作家シュニッツラー作の『輪舞』を読みました。この本では、ウィーンの中心部1区を囲った10カ所で、階層の違う10組の男女が出逢う様が描かれています。2区をはじめとし、3区、4区とリング通りを右回りに進んでいき、それぞれの地区の描写で、当時の風俗、生活環境などの社会的コードがふんだんに織り込まれていました。本を読む限り、当時のウィーンは区によって生活の質は大きく異なっているように感じました。そこで私は、現代においても住み分けは成立しているのか興味を持ち、区ごとに異なる住み分けに注目してウィーンの街並みを見てきました!
(https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Wien_Besatzungszonen-he.png )
【1区:ウィーン中心部】
オーストリアの首都ウィーンは全部で23の区からなります。中心部は1区で、2区以降は1区を囲うように広がっています。オペラ座やシュテファン大聖堂、王宮、市庁舎などのガイドブックに載っているオススメの観光スポットは、ほとんどが1区内もしくは1区の周りを囲むリング通り沿いに位置していました。歴史的な建物を楽しめる空間が、ウィーンの中心部にギュッと凝縮されているように感じました!1区では、地元の方々の買い物帰りや学校の行き帰りの様子、クリスマスマーケットを楽しむ姿に加え、観光客の姿も多く見受けられました。
シュテファン大聖堂(1区のほぼ真ん中)
市庁舎(リンク通り沿い)
【2区の街並み】
19世紀に、オットー・ワーグナーによるウィーン都市改造の一つであるドナウ川整備が行われるまで、川の氾濫によって大きな被害を受けていた地域が2区でした。この地域には誰も住みたがらず、当時はユダヤ人や階層の低い人々が住まわされていたのでした。
ドナウ運河として整備されたその場所では氾濫は起こらなくなりましたが、その場所に住んでいる人々の階層はそれほど変わりませんでした。今でもその様子は見ることができ、実際に1区からアウガルテン橋を渡り2区へ入ってみると、雰囲気はガラリ。1区のような歴史的な建物の建ち並ぶ景観は保全されておらず、橋を渡るとすぐ、現代的な背の高い建物が目に入りました。
2区川のドナウ運河沿いの建物
また、1区のように観光客の姿は見当たらず、レストランやカフェ、小さな広場で催されている市場を見ても、地元の方々に根づいた生活の様子が窺えました。1区と比べてしまうと生活の質は少し劣っているようにも見え、ホームレスっぽい人も見かけました。
冒頭で述べた『輪舞』で、初めに出てくる男女である娼婦と兵隊が出逢う場面となったのが、「アウガルテン橋のたもと」でした。そこで、実際に足を運んでみたのですが、アウガルテン橋付近は決して治安が良いとは言えない場所でした。それは、橋や橋のたもとにある落書きの多さが物語っています。
ドナウ運河を挟んで1区側から見た2区の景色
アウガルテン橋のたもと(2区側)
実は本を読んだとき、「アウガルテン橋のたもと」の「たもと」とは、1区側と2区側どっちなのだろうか、という疑問があったのですが、行ってみて解決。というのも、アウガルテン橋の1区側では人々が行き交い、路面電車も通っていた一方、2区側は人通りが少なく閑散としていました。アウガルテン橋の"2区側の"たもとは、身分の異なる男女の密会にはうってつけの場であったということが想像できました。
2区に入り少し進むとあるグロース・シッフガッセ(Große Schiffgasse)という通りには、ユダヤ人学校がありました。ユダヤ人学校には礼拝所があるため、前には警察が常時待機していました。これは、ユダヤ原理主義の人々に対するパレスチナの襲撃に備えてのものだと言います。
2区のユダヤ人学校
【19区、公共住宅】
カール・マルクス・ホーフ(Karl-Marx-Hof)という公共住宅は、地下鉄4号線の終点ハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)で下車後、すぐ目の前に現れます。オットー・ワーグナーの弟子カール・エーンによって1929年に建てられました。全長1㎞以上、1382戸が入った労働者用の集合住宅で、門をくぐった中には幼稚園や病院も完備されていました。ウィーンにあるこのような公共住宅の大半は、都市の中の都市たる機能を兼ね備えていたのでした。
外観
ウィーン中心部1区の駅カールスプラッツ(Karlspratz)から、約20分ほど地下鉄に乗るとカール・マルクス・ホーフに行くことができます。一方、東京駅から東京メトロ丸ノ内線に乗って約20分で行けるところは新宿駅で、とても住み分けられているとは言えないでしょう。ウィーンの街の持つコンパクトさが、1区や2区、19区での住み分けを成立させているのだと考えられます。
【観光地としてのウィーン】
ウィーンは第一次、第二次産業が盛んではないため、特に2009年から第三次産業である観光産業に力を入れ始めました。ドイツが発祥で、今ではウィーンの各地で開催されているクリスマスマーケットのおかげもあり、ウィーンを訪れる観光客は右肩上がりだと言います。リング通りの内側は、先ほども述べたように歴史的な建造物があり、観光地化している様子を感じることもできました。また、中心部から少し離れたところにあるシェーンブルン宮殿は、多くの観光バスを停めることができる広いスペースが確保されていたり、見学コースの整備がされていたりと、観光地化を図っている様が明確でした。
今後のウィーンはますます観光客が増加していくかもしれませんが、ウィーンは小さな都市です。観光客をとにかく呼べばいいというわけにもいかず、現在のウィーンの素敵な街並みを保つには、多くの人々を受け入れる体制を整える必要があるのではないかと思います。同時に、観光産業を発展させる地区を中心部だけに固めず、郊外地区の整備を通し、ウィーンに存在する光と影の影の部分にも目を向けなければ、1区とその他の地区の格差は広がる一方なのではないかとも感じました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!