中3生は,公立高校入試まで2週間を切り,中1,2生は期末考査も終わり,すでに答案が全教科返却されたという生徒もいる状況です。

高校1,2年生は今週から考査が始まる学校が多く,高3生はすでに受験終了の生徒と,今週末の国公立前期や私立の後期日程を控えている生徒がいる状況です。

 

このブログで発信し続けてきたことの一つに,「一人一人の学習能力や努力量には差がある」ということがあります。

これを認めずに,「だれでもやればできる」などと言う者がいたら,その人物を私は全く信用しません。

 

私の教育観として,誰もが5教科の勉強を満遍なくできる必要はないと思っています。

学校側はそれを良しとはしないのでしょうが,偏りがあっても良いと思います。

その方が人間らしいと言えるかもしれません。

5教科の勉強は努力できないが,そのほかのことで努力できることがあれば,問題ないと思います。

定期考査や提出物のようなものだけで成績をつけるようなことはせず,もっと幅広く,生徒の頑張りを認めるようなシステムを作るべきなのですが,いまだにそれがやられていないのは,結局今の方が,生徒を管理するのが楽だからということに落ち着くと思います。

5教科の成績が悪くても,5教科以外で努力していることがあるという人は,それを頑張れば良いと思います。

とにかく5教科至上主義には大反対です。

 

また,夢や目標を持って,そこに向かって努力するのは素晴らしいですが,それが最重要だとも思っていません。

夢や目標がなくても,他人にやさしくすることはできますし,何かの目的がないと頑張れないというのもちょっと違う気がします。

 

加えて,私は勉強に競争は必要ないと思っている人間です。

定期考査の順位に絶対的な価値があるとは思えません。

もちろん,努力の証明にはなりますから,それで評価される一面があっても良いとは思います。

しかしそれはあくまで一面であって,その子の全人格が,テストの点数によって決まるわけでは当然ありません。

 

節操もなくいろいろと述べてきました。

上述したようなことは,これまでブログでも発信してきました。

塾講師らしからぬ思想かもしれませんが,10年以上この仕事を続けてきて,世間一般とは異なるであろう価値観が生じてきました。

偏差値の高い大学へ行くことは努力の証明にはなります。

ですので,価値がないとは言えません。

しかし,偏差値の高い大学を出て,お給料の良い勤め先に就いて……というのが,絶対的な正義で,それが最善だなどとは一切思いません。

勉強ができる人はやれば良いですし,勉強に興味関心を見出せない人は,別の何か,自分が輝けることを見つけて,それをやれば良いのです。

たとえ勉強ができなくとも,自分の能力や適性を最大限生かして生活していくことが,尊いことだと思います。

 

少し話は変わって,フランスの哲学者,ミシェル・フーコーは,「学校は子どもたちを権力に従順にする装置である」と言いました。

学校にこういった側面があることは事実だと思います。

もちろん,読み書きそろばん,知識・技術の習得,見聞を広めること,人間関係を学ぶこと,そういったことができる場であることも事実だと思います。

しかし,それでも現状の学校教育には,大きなひずみのようなものがあると感じます。

そうでなければ,こんなに不登校の児童生徒が増えるわけはありません。

ひきこもりが社会問題化しません。

もちろん教育だけが問題ではないかもしれませんが,学校教育の影響は多分にあると思います。

 

学校がもっと素敵なところだったら,「明日も学校へ行きたい」と,誰もが思うはずです。

そう遠くない未来,変わっていくと思います。というか,むしろ変えていかないといけないと思います。

学校教育も,受験という仕組みそのものも。

 

学校の勉強だけができたところで,社会で生きてはいけません。

勉強で努力ができない子も,なんとかして生きる希望を失わず,社会の一員として認められる,自己肯定感を育めるような教育が必要のはずです。

 

例のごとく収拾がつかなくなってきましたので,切り上げます。

キャリア教育のための教材を見つけたので,春から導入する予定でいます。

 

お花屋さんの上,船のマークの学習塾Study Shipです。

無料体験,学習相談,お気軽にどうぞ。