2時間半ほど。昨晩遅かったわけでもなく、さほど疲れていたわけでもないのに今朝は久々の大幅二度寝。不覚であった。起きたのは昼近く。こんなに寝たのは久しぶり。で、文法と瞬間英作文の復習。最近かなり音声面での学習が不足している。
外務省休職中外交官(この肩書き長いけど、よくそう書いてあるから…)の佐藤優氏は以前著書で外国語の学習について、会話はさて置き読み書きができれば良いという趣旨のことを書いていた。私は読んでいてそれには同意出来ないと感じたことがあった。
前にも書いたが以前 IC RECORDER に自分の発音を録音して練習していたことがあった。手本となる発音を何度も繰り返し聴いて真似するわけだが、どう発音されているのかを聴きたいために繰り返し再生するのは勿論、スロー再生の機能も活用する。
でも、どんなに繰り返してもスロー再生してもよく聴き取れない部分が出てくる。すると、ちょっと奇妙な発想をする様になる。その時思ったのが「音を止めて聴きたい」というものだ。
これは無理な話だ。音とは流れているものである。流れているから音になるのだ。その流れをつかむために、流れ自体を止めてよく見てみたい(聴いてみたい)ということだ。けれど流れが止まった時点で音は止まる。つまり、静寂になってしまうわけだ。
方丈記の「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」を持ち出すまでもないが、流れている状態を理解するためにその流れを止めてしまっては、状態が変わってしまい、本来の姿を理解出来なくなってしまう。けれど流れのままではよく捉えきれず、理解出来ない。川の場合は写真に収めれば、瞬間の姿を捉えることができるが、音の場合はどうだろう。声紋のような波形やグラフに表すことはできるだろうが、どうも一般人の語学学習に利用できそうには思えない。あ、でも手本と自分の発音の違いをPC画面にそういったグラフで表すソフトがあったな。
ともかく、流れている状態が本来の姿であるモノをその流れを止めてじっくり観察したい、という欲望が出てきて、我ながら矛盾しているとその時に感じたのだ。北野たけしが映画を撮っている時に、自分がカメラマンとしてファインダーを覗きながらも、それと同時にカメラの向こうで俳優として演じる事ができれば自分の思う通りの映像が撮れるのに、というジレンマを感じたという話を思い出す。自分が演じたシーンを撮り終えてからいちいち確認するのではなく、撮影と演技を同時に出来たらという事だ。自分が分裂しなければ出来ない話だ。
音の話に戻るが、流れを止めてじっくり観察したいという話はレオナルド•ダ•ヴィンチも言っていたように思う。彼の残したスケッチの中に川の流れを描いたものが多数ある。水の流れを描くためにはよく観なければならない、その流れを止めてスケッチしたい。でもそれは無理な話なのだ。それでも残されたスケッチ群をみると、どれも精密に描き込まれている。
結局、私の発音練習は発展途上で空中分解中だが、そのうち再開したい。流れを止めてしまっては流れを理解出来ないから、スロー再生とヘビーローテーションで慣れていくしかないのだろうか。
外務省休職中外交官(この肩書き長いけど、よくそう書いてあるから…)の佐藤優氏は以前著書で外国語の学習について、会話はさて置き読み書きができれば良いという趣旨のことを書いていた。私は読んでいてそれには同意出来ないと感じたことがあった。
前にも書いたが以前 IC RECORDER に自分の発音を録音して練習していたことがあった。手本となる発音を何度も繰り返し聴いて真似するわけだが、どう発音されているのかを聴きたいために繰り返し再生するのは勿論、スロー再生の機能も活用する。
でも、どんなに繰り返してもスロー再生してもよく聴き取れない部分が出てくる。すると、ちょっと奇妙な発想をする様になる。その時思ったのが「音を止めて聴きたい」というものだ。
これは無理な話だ。音とは流れているものである。流れているから音になるのだ。その流れをつかむために、流れ自体を止めてよく見てみたい(聴いてみたい)ということだ。けれど流れが止まった時点で音は止まる。つまり、静寂になってしまうわけだ。
方丈記の「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」を持ち出すまでもないが、流れている状態を理解するためにその流れを止めてしまっては、状態が変わってしまい、本来の姿を理解出来なくなってしまう。けれど流れのままではよく捉えきれず、理解出来ない。川の場合は写真に収めれば、瞬間の姿を捉えることができるが、音の場合はどうだろう。声紋のような波形やグラフに表すことはできるだろうが、どうも一般人の語学学習に利用できそうには思えない。あ、でも手本と自分の発音の違いをPC画面にそういったグラフで表すソフトがあったな。
ともかく、流れている状態が本来の姿であるモノをその流れを止めてじっくり観察したい、という欲望が出てきて、我ながら矛盾しているとその時に感じたのだ。北野たけしが映画を撮っている時に、自分がカメラマンとしてファインダーを覗きながらも、それと同時にカメラの向こうで俳優として演じる事ができれば自分の思う通りの映像が撮れるのに、というジレンマを感じたという話を思い出す。自分が演じたシーンを撮り終えてからいちいち確認するのではなく、撮影と演技を同時に出来たらという事だ。自分が分裂しなければ出来ない話だ。
音の話に戻るが、流れを止めてじっくり観察したいという話はレオナルド•ダ•ヴィンチも言っていたように思う。彼の残したスケッチの中に川の流れを描いたものが多数ある。水の流れを描くためにはよく観なければならない、その流れを止めてスケッチしたい。でもそれは無理な話なのだ。それでも残されたスケッチ群をみると、どれも精密に描き込まれている。
結局、私の発音練習は発展途上で空中分解中だが、そのうち再開したい。流れを止めてしまっては流れを理解出来ないから、スロー再生とヘビーローテーションで慣れていくしかないのだろうか。