1000年前の12月21日(旧暦ですが)は紀貫之が日本初のブログを書き始めた日。
60歳を越えるおっさんが「女性のふり」をしてみたり、匿名性を充分に活かしている。
ブログカテゴリーはさしずめ「旅」とか「患者・遺族」という感じ?

歌は詠めないものの、私も治療の為高知に行ったので「デジタル土佐日記」を
まとめてみたい。滞在期間は11月19日から12月18日までの1ヶ月間。

<土佐日記 門出>
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
それの年(承平四年、934年)のしはすの二十日あまり一日の戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよ具しつる人々なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。

<現代語訳>
 男も書くとか聞いている日記というものを、女である私も書いてみようと思って書くのです。
 ある年の12月21日の午後8時ころに出発します。そのときのことを少しものに書きます。
 ある人が任国の4、5年の任期を終えて、しきたりとなっていることをすべて終えて、
解由状などを受け取って、住んでいる官舎から出て、船に乗ることになっている所へ移ります。だれも彼も、知る人も知らない人も、見送りをします。
長年、親しくつき合った人々が、本当に別れるのがつらく思って、一日中、いろいろと忙しく騒いでいるうちに、夜が更けてしまいました。、、、、、

<土佐国府及び紀貫之邸跡>
高知大病院から車で5分。国分寺の北、国府小学校前の小径を入った所。

国府跡は現在「古今集の庭」として簡素に整備されている。駐車場と案内板がある。
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紀貫之邸跡。「国司」とは朝廷が派遣した地方長官。任地での全権を有した。
大化の改新(646年)から1200年頃までが「国司全盛」の時代であったとすると
紀貫之が赴任した930年頃はまさに「左うちわ」の頃。が、鎌倉時代になると「幕府」
が派遣・任命する「地頭」が実力で権益を横取りする様になる。現在柱1本残っていない。
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「土佐のまほろば」は少なくとも2つある。1つはここ「都佐国造(現高知市、南国市)」。
もう一つは「波多国造(現四万十市周辺)」。この碑の捉え方は不充分であろう。
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29番札所土佐国分寺。先ずこちらから行った方が道は判りやすいかも。
軍事力と仏教は「植民地支配」の2大アイテムであり「朝廷帝国主義」の根幹。
権力の持ち主と拠点は朝廷(国府)、長宗我部(岡豊城)、山内家(高知城)と
推移してゆくが国分寺はそれらと結びつき生き残った。
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国分寺のサクラ?撮影日は12月6日。高知県内を廻っていると所々に植えられている。
地元の人に聞くと11月頃に咲く種類なのだとか、、、。
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国分寺から見た岡豊(おこう)城。あちらもすっかり「夢のあと」状態。
山内氏以降、高知中心部の鏡川が河川改修されるまでは現高知城のあたりは湿地帯。
湿地帯の東の物部川沿いの耕作地が岡豊・国府。西側の鏡川・仁淀川地域の拠点が朝倉。
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私が国分寺に着いてから帰るまで、ずっとアイドリング状態でたむろってたツーリング連中。
田園風景の中の古寺に無用な騒音をまき散らし、本人達は満足らしいが、いかにも興ざめ。
1000年後に癌の特効薬は出来てても、こいつらの頭を治す薬は開発できないだろう。
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土佐電鉄舟戸駅。信号の下の堤防の壁に看板がある。
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看板の拡大図。土佐大津に近くここから船出したとの事。
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舟戸から浦戸湾へ向かう水路。ここから京まで約50日間を要している。
718年に阿波ルートが整備されてから200年近く経っているにも関わらず、
土佐と京の間の交通がどれほど大変だったかが伺える。
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舟戸から国府を振り返った風景。当時はここが土佐の表玄関だったハズ。
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