今日、体操の日本選手権をテレビで少し見た。

高校生4人が決勝に残っていた。

こんなにもたくさんの若い有望選手が出てくるのは、やっぱり、日本が世界一になった影響なんだろうな、と思った。

現役で世界一の内村選手はもちろんだけれど。
アテネオリンピックの団体金メダル。あのとき、小学生だった子ども達が、10年を経て、世界で戦える存在になってきている。

10年て、すごい年月なんだなあ。
人生って、必要な時に、必要なことが起きていくんだなあ、と、しみじみと感じる。

一生懸命努力したことも、後先考えず遊び呆けたことも。
喜怒哀楽の全て。苦しみや恐怖すらも。

また、ここ数年は、自分の経験だけでなく、他人を通して、その時の自分に必要なことを見せられることも多い。


最近、思いがけないお誘いを頂く機会が増えた。


今度は、何が出てくるんだろう。

楽しみだ。
心が落ち着く場所にいると、

気持ちが緩むだけでなく、

今まで、気にしてないと思っていた小さなことで、意外と傷ついてきたんだな、と気がついたりする。

そうなんだ。

辛かったんだ。

よく頑張ってきた。
今さっき、NHKの「SONGS」を見た。
今週は、ゴールデンボンバーだった。


…この番組で、初めて、ゴールデンボンバーを知った。


年取ったな…、と思っていたら、
テレビから、


「老若男女に大人気!」


私が時代に乗り遅れまくってるだけだった。
情報量過多で科学技術の発展・細分化が著しく、一個人であっても何かにつけて「自己責任」という名のもとに専門的知識と判断を要求される現代において、一人の人間ができることは、限られている。
時間的にも、能力的にも。

例えば、私は、弁護士一般の仕事をすることはできる(正確には、余りに専門的な分野の業務はできないが)。
でも、例えば、毎日一汁三菜の食事を手作りすることはできないし、車のバッテリーが上がったりタイヤがパンクしても処置を自分で施すことはできない。ご飯を作るには時間がないし、車を直す知識や技術はない。

他にも、家電のセッティングや修理、病気を治すこと、見たいエンターテイメントを全て制覇すること、行きたい場所全てに旅行すること…。

自分ができることなんて、本当に限られている。
誰かの助けや仕事がなければ、今の便利な生活を維持することはできない。

ありがたいなあ、って思う。
空気だとか、見せかけの公平・正義だとか、見せかけの思いやり・助け合いだとか、に威迫されて、意に反することをするのは止めた。

あの人大変そうだから、これくらいなら、自分が我慢したっていい、それにこれで1つ貸しができる、

とか、

ここでNOと言ってしまったら、私はワガママな、或いは恐い人間と思われるかもしれない、それは嫌だ、

とか、

悪口を言われたくないから、本当は嫌だけど迎合しておこう、

とか、

ここで意見を言ったら、自分や周りの仕事が増えてしまうから、事なかれで行こう、

とか。


アホか。

何のために弁護士になったんだっつうの。

と、自分に言いたい。


私は、私のことが大切だ。
だから、自分を貶めるような振る舞いは、もうしない。

幼い頃に下された「優しくない」というレッテルがトラウマとなっていて、人間関係で躓く度に、「私が優しくないからダメなんだ」と思ってきた。

今度こそ人間関係を上手くやりたい、そのためには優しくならねば、と思い、優しくなろう、なろう、とした。
どんな人にでも何らかの共感を示し、迎合的になり、時には犠牲的になることもあった。

でも、優しさって、共感だけじゃないし、ましてや、自分か犠牲になって人に尽くすことでもない。

それは、単に、人から嫌われたくなくて、そう振る舞っているだけだ。
自分の寄って立つ基盤を、他人からの評価に 置いている。だから、不安定なのだ。
だから、自分を貶めてまで他人の評価を欲しがるのだ。

今後、本当の優しさを発揮するためには、まずは、自分に自信を持たねばならない。
自分に自信があってこそ、他人を大切にできる


つまり、自分の本心に、忠実であれ、ということだ。
先週後半は、仕事で、ものすごく理不尽な思いをして、悔しく、落ち込んだ。

久々に、腹の底が冷えるような怒りと悲しみだった。

飲みに行っても、楽しいけれど、完全には気が晴れない。

日曜にやろうと思っていた仕事も手につかず、その自責の念も加わって苦しんでいたら、友達から、夕飯のお誘いがあった。

元気がないようだったから、とのことだった。


久々に、泣いてしまった。
ずっと、ずっと、何かが欠けていて、その代わりにギフトを貰っているような気がしていた。


転じて、何かを差し出さなければ、得ることは出来ないのだ、と思うようになった。


対価を支払うことを決めた(思い込んだ)のは自分なのに、易々と何もかも手に入れている(ように見える)人を、羨んだ。
余りに羨望する気持ちが強いので、いざ自分が何かを手に入れると、嫉妬されるのではないか、と恐くて仕方がない。

でも、本当に恐れているのは、他人からの悪感情という妄想ではなく、

驕り高ぶる自分の心や、何かを差し出さなければならない、という不安だ。


物事は、全てが対価関係で成立しているのではない。

禍福は糾える縄かもしれないが、福を抱き続けても、良いのだ。
他人から見たら禍でも、私が福だと思うなら、それでいい。