思いもかけない悪い出来事が起こった時、比喩ではなく本当に、目の前や足下がぐらぐらすることがある。

そして、その感覚は、なかなか忘れることができない。


ぐらぐらした時と似たようなことがあると、今現在の出来事は過去に比べて少しも悪くないのに、過去の感情を思い出して、ぐらぐらしてしまう。


ただ、事案によっては、昔はぐらぐらしていたけれど、今、似たようなことがあってもぐらぐらしないこともある。

きっと、あらゆる意味で、過去の感情を乗り越えたのだろう。

たとえば、今だったら、仕事上で、多少意地悪なことを言われても、過去に言われた意地悪を思い出して怒り3倍、なんてことはない。

過去に言われた仕事上の意地悪は、今の仕事では全く問題にならないことだからだ。

今の私だったら、過去に言われた意地悪を言われたとしても、余裕をもっていられるからだ。



では、今も、ぐらぐらする出来事はなんだろう。


小心者なので、具体例はいろいろあるけれど、まず、健康関係は、ぐらぐらする。

病院の検査結果を待つ状況が、母の時の不安を否応なく思い出させる。

加えて、私は、基本的に自分1人で対処しなければならないので、少しでも精神的ショックを和らげるために、最悪の事態を予想する。

杞憂だったしても。友人や上司や親戚の助けを借りることができるとしても。


それでも、あの時の感情をフルコースで思い出してしまう。録画した番組を早回ししたみたいに。


血管造影、MRI、細胞診の結果を待つ気持ち、良性であってくれと祈る気持ち、

悪性でも転移していないでくれと祈る気持ち、PET検査の結果を待つ気持ち、

手術の可否判断を待つ気持ち、弟と励ましあった気持ち、

手術ができなくても抗がん剤が奇跡的に奏効することを祈る気持ち、

あえて明るく病気のことを話す本人を茶化す無神経な他人を見下して許せない気持ち、

担当医を替えれば奇跡が起きるのではないかと考える気持ち、

本人が希望する民間療法が効くのではないかと祈る気持ち、

本人が行きたいところに連れて行きたい、食べたい物を食べさせたいという気持ち、

抗がん剤で体力を奪ったことを後悔する気持ち、

日に日に弱る本人の姿を見て、もう長くないと諦める気持ち、

本人が残りの命を受け入れて私に話した辛さや恐怖を想う気持ち、

最期の入院の時、きっともう家に帰れないと2人とも思った気持ち、

痛みや痒みを訴える本人にモルヒネが投与され、意識が不明瞭になり、そんな本人の側にいることに耐えられなくなりそうになった気持ち、

勉強を言い訳に逃げたのではないかという自責の気持ち、

朦朧とする意識の中で、私が母に心配をかけるようなことを言ってしまった時、意識が明瞭に戻って心配してくれた時の気持ち、

ロースクールの自習室にいた時に、もう危ないと病院から電話がかかってきた時の気持ち、

入院や通院の際、車がなくて思うように動けなかったけど、こんなことになるんだったら、お金なんかどうでもいいから車を買えば良かったと後悔した気持ち、

最期の夜中じゅう手を握ってずっと話しかけていたら、涙を流しながら逝った時の気持ち、

その日は、再入院前に一緒にそごう美術館に来る谷内六郎展に行こうねと約束していた日だったことを思い出した時の気持ち、

その中でも、連絡するべき人に連絡し、葬儀の手配をした時の気持ち、

どんなにか家に帰りたかっただろうと思う気持ち。


こんなに大切な人を、十分大切に出来ないままに、失くしてしまった気持ち。


このブログでは、最近も母にまつわる思いをたくさん書いていたから、忘れていないと思っていた。

けれど、最近感じていたのは、喪失感等の現在の私の感情であって、このようなその時々の細かい感情は、結構、長い間忘れていた。


ぐらぐらしている。


これだけ列挙しておいて言うのもなんだが、念のため。生死に関わるようなことは起こっていません。

我ながら、過剰反応。