マイク・ホンダ前下院議員の曾祖父(順太郎)と祖父(實)が1901年(明治34年)「湯屋業」のためシアトルを目指していたことを紹介した。この親子が移民するに至った当時の社会情勢や移民の実態を調べた。

マイク・ホンダ前下院議員のルーツ
https://ameblo.jp/study-houkoku/entry-12303497060.html
https://ameblo.jp/study-houkoku/entry-12303627556.html
https://ameblo.jp/study-houkoku/entry-12305250787.html

 

 当時の社会や移民の実態は、新聞記事を集めた「明治ニュース事典」(毎日)の「いみん」にあり、祖父(實)が渡米した明治34年前後の明治30年から35年までの記事から抽出した内容からうかがい知ることが出来る。
明治・大正期の新聞記事検索(国会図書館)
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-700021.php


 明治政府は、人口増に伴う余剰労働力と外貨獲得のため移民を推進していた。移民保護規則(明27年)、移民保護法(明29年)では、移民が「労働を目的」と定義されている。「移民会社」は今で言う「人材派遣業」であり、工夫、農夫を海外に派遣する業務で、斡旋・保証や送金手続きやトラブル対応に当たっていた。多くの日本人が渡航する地域では日本人のためのサービス業(園丁、車夫、理髪人など)のニーズがあり、後から派遣した。「湯屋業」(銭湯)も日本人のためのサービス業務であると理解するのが自然である。
 なお、当時の移民が置かれた立場は「ほとんど着の身着のままという有様ゆえ、その困難名状すべからず」と記事にかかれているように、困窮者であった。


明治ニュース事典から特徴的な記事を紹介する。


「オレゴン鉄道建設工事労働者の白人と日本人の違い」


オレゴン州で日本人鉄道労働者を迫害(明治26年4月20日 朝野新聞)
 在バンクーバー帝国領事館の通信によるに、去る3月21日発兌のシャットル新聞紙上に、合衆国オレゴン州ノメドッオルトより特発来電を載せたり。曰く、南太平洋鉄道オレゴン部の監督フィールドは、ロースボエグ最寄りドーレンス停車場近傍に於いて。白人と日本人との間、二条の騒動を引き起こしたる件に付き、報道せり。曰く、該鉄道会社は、数日前白人工夫若干を解雇し、これに代うるに日本人を以ってしたるに、爾来右白人の工夫どもは大いに日本人を恨み、労役中は石礫を投じ、夜間は住所を砲撃し、暴行居たらざるなし。よって監督某氏は日本人の保護を地方の警官に請いたけれども、その凶暴を制することあたわず。やむを得ず20口を以って日本人をロースボエグに移し、検察官に出訴したり。しかるにその夜、またぞろ日本工夫の寄宿舎に油を濯ぎ、火を放ち手これを焼却したり。よって会社は日本人保護のため、特別列車をオドレース停車場に差し向け、なお警官をもこれに乗り込ましむべきはずなり云々。しかしして右の通信者は曰く。本件に付き、爾後なんらの報道に接しざるを以って、その後の模様はなお探聞の上、更に詳報せんとす。概して該地方の白皙労働者は、同業組合を設け、相結託してしばしば傭者をくるしめ、組合外の労働者にしてその募りに応ずれば、たちまち本件のごとく凶暴を逞しうするを常とすることなれば、今回の事変も労働上の競争の外なるべし。また白人工夫解傭の原因となりとて、監督フィールドの説く所によれば、該地方に於いて、傭い得べき白人工夫は概して流浪の徒にして、去就常なく、新陳代謝し、随って工事の熟練を得るに由なく、乗客の安全を危うするの恐れあるにより、余儀なくこれを解放し、日本人工夫を採用するに至りしなり云々と。

 

移民保護規則(明27年)、移民保護法(明29年)

労働を目的として移民
 

移民保護規則を公布(明治27年4月13日官報)
第一条 本令に於いて移民と称するは、労働を目的として外国に渡航する者を謂い、移民取扱人と称するは、何等の名義を以ってするに拘わらず、移民を募集し、または移民の渡航を斡旋するを以って営業となす者を謂う。
 前項労働の種類は、外務大臣、内務大臣協議してこれを定む。

第二条 移民は旅券を携帯すべし。

第三条 移民にして、帝国と条約を締結せざる国の領地に移住せんとする者、または移住すべき地の国法に違反して居受洗とする者には、旅券を下付せざることを得。

 

移民保護法を制定 明治29年4月10日 東京日日
第一条 本法に於いて移民と称するは、労働に従事するの目的を以って外国に渡航する者及びその家族にして、これと同行し、またはその所在地に渡航する者を謂う。
 前項労働の種類は、命令を以ってこれを定む。

 

「移民の階層と動機」ハワイ移民騒動より(布哇=ハワイ) 
 明治30年3月からハワイ政府が日本人移住者の上陸を拒否する事件が相次いだ。3月神州丸534人、4月佐倉丸316人、4月日本政府軍艦派遣を決定、8月ベルギーを仲裁国指定でハワイと仲裁裁判受諾。
 神州丸乗客の上陸拒否された日本人は代言人を通して大審院に提訴。その訴状の一部より移民の動機、背景が見える。
(注記;この時点でハワイは独立国)

 

ハワイ上陸拒絶事件の経緯 明治30年4月10日 時事
(略)
布哇移民上陸拒絶に対する訴状
(略)
 我々は、日本帝国と布哇国との法律の下に組織され営業する神戸移民会社が、昨年10月中、布哇国の耕主及び農業会社より日本労働者220名の真実なる注文を受けたこと、かつその耕主及び農業会社は法律に指定した方式に基づき、この労働者を輸入する認可願いを移民会議局に致し・・・
(略)
 我々は、上陸権利について紛紜あることを毫も聞知せず、財産を売り家屋を棄てて、前記の如く布哇に来る船に乗り、日本を出立したるものなり。(略)

 

ハワイ上陸拒絶事件の経緯 明治30年5月21日 時事
 上陸拒絶事件、日本人を排斥するは各耕主の意思にあらずして、全くホノルル府中少数米国人の私情に出ず。既に日本人は布哇のため有益なる労働者にして、在留者の数さえ極めて多きことなれば、これら労働者の需要品を供給するがため、日本承認のこの国に渡来するもの多く、ついには園丁、車夫(馬車)、理髪人のごときものさえ日本人に於いて営業するものが続々多きを加え、米国人のホノルルに在るものをして、ようやく日本人を嫉むに至らしめたり。(略)

 

ハワイ移民3万3千余に達す 明治30年6月8日 報知
明治19年1月28日 日布条約締結から明治27年まで(政府管理のもの)
 男 23,396人
 女  5,673人
明治28年以降(移民会社と自由契約のもの)
 男 10,474人
 女  若干
以上合計
 男 33,870人
 女  5,673人+α

 

(本田順太郎と實が旅券を取得したのは明治34年)

 

無一文の移民多く、トラブル多発 明治33年4月21日 報知
 近来外国出稼人の数ますます増加し、そのため到る処日本人労働者排斥の声を聞くに至りしが、その筋に達したる報告によれば、正月より3月17日まで都合8回の渡航便にてバンクーバーに上陸したる本邦人は、男女合計1542人に達し、これを内分け1月15日着にて男201人、女11人、2月9日着にて男108人、女6人、2月18日着にて男232人、女5人、2月28日着にて男76人、女2人、3月1日着にて男131人、女3人、3月5日着にて男20人、3月13日着にて男238人、女12人なり。右の内移民会社取扱いの数は210人に過ぎず、その他は皆各地方の無免許周旋人等が保証人に立って、旅券を得たるものなり。かく多数の出稼人の多くは、ほとんど着の身着のままという有様ゆえ、その困難名状すべからず、始め本国出立の際は、米国に入り込まんとの志なりしも、米国入国の際は、保証金30ドルを所有せざるべからずが故、中にはバンクーバーより密航を企てて、その筋に捕縛せらるる者あり、この先いかになり行くべきかと、我が当局者もほとんど当惑の体なり。  

 

移民会社軒並み経営難に陥る 明治35年10月20日 大阪朝日
 移民事業の有利なるは世の知る所、現今本邦移民は、布哇、北米大陸その他諸外国に在るもの総計約10万人、これら移民の収益は、土地によりまた人によりて多少の差なきにあらねど、一人にして一年平均100円の貯金をなし、これを本国に送付しつつあるは事実なれば、すなわち10万人の汗は凝りて一千万円の金塊となり、我が国力を培養しつつあるなり。
(略)
 我が邦には年々4,50万人の人口増殖しつつあり、移民事業は有利の事業と云わんよりも、むしろ必要の事業と云うを以て適当となせるをや。
(略)

 

「戸籍の意味」
 移民の日本人会の記録や旅券発行記録などである程度のルーツが分かるが、最終的には戸籍簿、特に戦前までは「壬申戸籍」を閲覧することによりルーツが判明する。しかし、壬申戸籍は現在閲覧を禁止されている。

 

明治の表象空間 松浦寿輝著(仏文学 東大名誉教授)
3 定位-戸籍(1) 
76頁 (注1:幕藩体制の封建的な「タテ」構造に対する「横」)
   (注2:ひとたび「横」にずれた→明治維新における騒乱) 
 この時期、「横」を抑圧するための国家規模の装置としてもっとも重要であり、喫緊の整備が必要だったものの一つとして、戸籍制度があった。ひとたび「横」にずれたものを元の位置に引き戻し、そこに固定するという作業がシステマチックに遂行されなければならなかったのである。明治4年4月4日の太政官布告による戸籍法とともに始まるものこそ、その作業に他ならない。全国各地方を区に分け、区に置かれた戸長・副戸長が戸籍事務を処理し、さらに戸籍統計を中央政府に差し出すことが義務付けられる。かくして全国民を「戸」において一元的に把握することが可能となったのだが、ここにおいて注目すべき点は二つある。第一は、これに先駆しその原型となった京都府の戸籍仕法(明治元年)が士籍法、卒籍法など族籍別に編成されていた(明治4年華族籍法追加)のに大使、この明治4年のものは身分の区別なく屋敷に番号をつけ、それぞれに戸主を於いて一律に番号順に編成されていた-華士族平民の称の記載はなおも残されていたにせよ-という点である。(平等化)第二は、この戸籍制度の確立により、同年10月3日に従来の宗門人別改帳の制度が廃止されたと謂う点である。(世俗化)
 翌明治5年2月1日に施行されたことからこの年の干支をとって「壬申戸籍」と呼ばれるこの戸籍は、全国民の形式的平等を一応は確立し、またそれと同時に人口管理を檀那寺ごとの割り振りという宗教的桎梏から解放したわけで、平等化(均質化)と世俗化というこの二点において、近代的な「国民」の創出のための画期的意義を持っていたのである。

 

77頁
 戸籍とは、不動産登記がそうであるような、土地が民衆に帰属することの、すなわちその土地を民衆が所有していることの確認ではない。所有権の証明であれば、それを譲渡したり移転したり放棄したりするのに応じて記載はいかようにでも変わりうる。そうではなくそれは逆に、民衆が土地に帰属していること-すなわち彼ら一人一人が各自の「戸」に貼り付けられていて、この国の民として絶対不可欠の根拠がそこにあり、容易なことでは「横」に逸脱しがたいという宿命を、一律の番号システムによって明瞭に刻印し、それを当人に暗黙のうちに厳めしく通告している原簿なのである。