ノーベル賞受賞のクルーグマン教授が1月13日ニューヨークタイムズに「動き出した日本Japan Steps Out」を投稿。その内容は「経済的停滞を終焉させる」アベノミクスを激賞。
クルーグマン教授投稿(京大藤井研究室訳)
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/b4/job/264

 経済的停滞すなわちデフレの原因となった経済政策を紹介する。
橋本構造改革
 現在の我々を取り巻く環境は、長期的デフレのなか、企業は海外に生産拠点を移し、雇用を減らし、賃金が下がり、失業者や生活保護受給者が増えた。民主党は、これらの問題を直接給付で補助しようと、実現不可能なマニフェストで国民をだまし、政権を取った。しかし、何一つとして言ったことを実現せず、言わなかったことを官僚主導で決められ、民主党に対する信用はゼロレベルまで下がった。民主党に政権を取らせたのは、ある意味で自民党のオウンゴールであった。それは、橋本構造改革が発端であった。 
 
 中野剛志氏は、評論集「反官、反民」の「今こそ古い自民党の政治を」のなかで、「日本経済は、バブル景気が崩壊し、平成不況に突入した。それは、古い構造を温存し、かつてのモデルに固執していた日本が、グローバル化に対応できなかったために起きた不況であると認識された。実際には、単に80年代後半のマクロ経済運営の失敗によって起きた不動産バブルが崩壊したというに過ぎず、したがってその対応は、マクロ経済政策によるほかなく、日本の経済構造を変えても仕方のない話のはずだった。まして、政治構造や社会構造と、バブル崩壊とはほとんど関係がない。ところが、その本来無関係な話が結び付けられて、大きな改革運動になっていったのである。」と明確に指摘している。
 
 バブル景気においては、金融機関が余剰資金を企業や投資家に融資し、それが株式や不動産に向かった。値上がりを前提としてその土地を担保にして融資を受ける。さらに土地や株式の投機へ向かった。大蔵省や日銀の後手に回った政策が、バブルをふくらませ、次に景気崩壊を導いた。1990年から始まった景気後退のなかで1991年には急激な信用収縮(株式、不動産)が起こり、不良債券が急増していった。それと共に実体経済も不況になっていった。景気が上昇に向かうのは1993年末であったが、地価は戻らなかった。(バブル崩壊)
  バブル経済と崩壊の反省から、本来の処方箋と異なる「構造改革」へ世論も政治の世界も突き進んでいった。橋本内閣は、六つの構造改革(行政、財政、社会保障、経済、金融、教育)を1996年秋から1997年初頭にかけて発表し、実施していく。この改革のなかで金融システム改革(Free, Fair, Global)が即効し、バブル崩壊以降抱えていた不良債券が表面化する。銀行は、国際金融機関として自己資本比率8%以上を求められ、多くの不良債権を保有していた北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が破綻した。証券会社は運用利回り保証や損失補償などを引き受けた債務が表面化し山一証券などが破綻した。破綻した銀行は国有化され、二束三文でリップルウッドなどの米金融機関に売られ、不良債権の回収すなわち貸しはがしを強行し、多くの企業が倒産に追い込まれた。
  景気低迷に追い打ちをかけたのが1997年4月の消費税増税であった。
(次回、構造改革の結果、各種指標)