1868年4月から5月にかけ奥羽越列藩同盟が成立した。二本松藩の玉砕、新潟長岡藩(河井)の陥落、そして会津若松城の悲劇があり、その年秋に薩長の官軍が東北を支配した。

 会津で白虎隊に男装して入隊していた女性がいる。同志社大学の創設者・新島襄に嫁いだ山本八重である。その兄は、鳥羽伏見の戦いで負傷し盲目となり、薩摩から請われて槇村京都府知事顧問になった会津藩士・山本覚馬である。今出川の屋敷を新島に与え、同志社を実質的に創設し育て上げた。覚馬は、京都の政治(初代府会議長)、学術(同志社、府立医大)、産業(島津、GS;島津源蔵など)を育てた大恩人である。

 明治10年(1877年)西南戦争において、圧倒的戦闘能力を持つ薩摩隼人に対し、大久保の政府軍は人員増強(農民出身)、武器弾薬の物量で攻めようとしたが、田原坂で1ヶ月釘付けになった。警視庁の川路大警視は、会津を中心とする東北の士族を抜刀隊として田原坂に投入した。(司馬説) この抜刀隊投入により、西郷軍が崩れ、鹿児島に退却することになった。戊辰戦争以降、会津出身者は苦難の道を歩んだ。未だに会津と長州は和解していないと聞く。

 そして今、福島は、管政権と東電からひどい仕打ちを受けている。
3月11日の時点で、専門家が判断すれば、レベル6か7の状況であることが分かっていたはずである。
それを、4月12日まで隠していた。(3月12日のブログに懸念を表明していた。)10km、20km、30kmと退避勧告をしたが、そこに住む人々をどのように収容し、支えて行くかを示さない。全く無責任な政府である。この一ヶ月間、生活保障もしない、逃げなければ人々が被曝してもかまわない、勝手に避難しなさいと言っているようなことである。人ごとのように、「そこには20年住めない」と、無神経な発言をする「人でなし」がいる。その本人は、長州出身で奇兵隊内閣と言った。

 試練は、不公平に、日本国そして福島県に集中する。

14日追記
人でなしの話を記者の前で紹介した松本健一氏は仙石さんのご学友とのこと。さらに西岡参議院議長が再び首相の退陣要求を求めた。きな臭い話である。