こんにちは。
プロデューサーの西村です。

昨日の21時30分から、「LINE LIVE」で
ぼくたちが制作している「メアリと魔女の花」の
主題歌を発表しました。

【LINE LIVE】
LINE LIVE「セカオワからの大事なお知らせ」


ぼくらが映画「メアリと魔女の花」の主題歌を託したのは、
「SEKAI NO OWARI」のみなさんです。


「メアリと魔女の花」主題歌「RAIN」


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彼らに主題歌をお願いしたのは、2016年の12月。
以来、Fukaseさん、Saoriさん、Nakajinさん、DJ Loveさんと
米林監督、そして、ぼくの6人で、主題歌を一緒に作り上げてきました。
そして、一曲の素敵な曲ができました。

映画は7月8日(土)公開。
主題歌は、7月5日(水)発売。

この映画と主題歌を、お届けするのが楽しみです。
ぜひみなさんご一緒に、見に来て、聞いてください!

さて、以下の文章は、セカオワのみなさんから
最初のデモ曲があがってきたときに、
ぼくからセカオワの皆さんに宛てた手紙です。
こういうやりとりを、繰り返してきたのです。

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Fukase
さん、Saoriさん、Nakajinさん、DJ Loveさん、

 

こんにちは。プロデューサーの西村です。

みなさんの名前を、どういう順序で書くべきか分からず、上記のように書きました。

グループ名ではなく、みなさんのお名前を書きたかったのです。

もし、順序があったら、教えてください(笑)。

 

まず、第一に、新曲のデモをお送りいただき、ありがとうございます。

いただいたデモは、もう100回は聞きました。

そして、申し訳なく思いました。

その理由を書きます。

 

最初の第一節、「魔法は、いつか、解けるとぼくらは知ってる」

メロディと詩、どちらも突き刺さりました。

歌曲の冒頭から、いきなり、

映画の核心を言い当ててくれました。

 

2月末にベルリン・フィルム・マーケットというのがあるのですが、

海外の配給会社やプレスに向けたコメントを求められたので、

ぼくは、プロデューサーのコメントとして、以下を提出しました。

 

=====

魔法の力を作り出し、それに振り回されて、

大人たちの世界は、あいも変わらず混乱しています。

子どもたちは、その混乱の中、

未来を見通せず、暗闇の中で立ち止まります。

そういう時代に、アニメーション映画は何を描くべきか。

それが、「メアリと魔女の花」の企画の発端です。

 

ぼくたちが作る映画は、“魔法使い”の冒険譚ではありません。

描かれる異世界は、単なる余興のためでなく、

子どもたちの真実の一日を描くために存在します。

描かれる恐怖は、恐怖のためでなく、

それを乗り越える勇気のために存在します。

描かれる魔法は、奇跡のためでなく、

人間が本来生まれ持つ、自分の力に気づくためにあるのです。

 

映画「メアリと魔女の花」は、“魔法使い”の物語ではありません。

人間の少女・メアリの愛と勇気の物語です。

=====

 

ぼくたちが描く魔女の物語は、みなさんが書いてくれた一節のように

「魔法はいつか解けるとぼくらは知っている」

そして、

「魔法を失ったとき、ぼくらは自分の無力さに気づく」

でも、

「魔法を失ったときに、ぼくらの中にあった"本当の力”に気づくことができる」

それに気づくことができたとき、ぼくたちはもう、大丈夫。

言い換えるならば、そういうことを言おうとしている映画なんだと、

デモ曲を聴きながら、思ったのです。

 

しかし、それを思ったとき、一方で、

セカオワの皆さんが大切にされているものを

壊してしまうのではないかと言う不安が、頭をよぎりました。

先日拝見したドームでのコンサート。

すばらしかった。

その異世界観。

楽曲のファンタジー性。

そこに没入し、心底楽しんでいるファンの方々。

セカオワの皆さんを、ファンの方々も含めて好きになりました。

 

ただ、そのファンの方々に向けて、

「魔法はいつか解けると、ぼくらは知っている」

と、Fukaseさんの声で歌われたとき、
ファンの方々は、どう思うだろう。

もし、セカオワのコンサートの最後に、この歌が、

「魔法はいつか解けると、ぼくらは知っている」

と歌われたとき、その世界に没入していたファンの方々はどう感じるのだろう。

もしかすると、僕たちの映画のために、セカオワのみなさんは、

みなさんが作り上げた世界を否定するような歌を作ってしまうのではないか。

それは、あってはならないのではないか。

それが、冒頭に書いた「申し訳なく思った」理由です。

 

 

しかし、そんなわけはない。

そうであれば、ぼくたちが主題歌をお願いするわけがないのです。

====

描かれる異世界は、単なる余興のためでなく、

子どもたちの真実の一日を、活写するためにある。

====

という僕ら作り手の思いは、

セカオワの皆さんと同じはず。

 

RPG、ドラゴンナイト、眠り姫、……etc.

それら楽曲の寓話性は、その寓話性そのものを目的としているのではなく、

寓意を用いて、複雑な、現実の中で見えなくなってしまった

大切なモノを描き出そうとしている。

だから、あの世界を選ばれた。

恥ずべきことですが、今さらながら、そこに改めて気づかされたし、

その再確認は、少なくとも僕たちにとっては大切なことでした。

 

そして、それが正しいとするならば、

セカオワのみなさんは、

寓話の世界にファンの方々を閉じ込めることを目的とはしていないはずだ。

その寓意に込められた大切なものを、歌を通して確認してもらい、

現実に立ち向かう力を持って帰ってほしい、

そういう思いで歌われているはずだ。

自分達が愛したものは、世界は、やがて悲しくも終わる日が来る。

しかし、そこからまた新たな世界が、必ず始まる。

Sekai noOwariという名称にかけた思いを、ぼくはそう感じました。

 

Studio Ponoc、それはクロアチア語でミッドナイト、深夜零時を意味します。

古い一日は終わってしまう。
でも、そこから新しい一日がはじまる。

そして、その一日は、まったく別のものでなく、
続いた一つの時間です。

 

この類似性が、まったくの勘違いなら、大変お恥ずかしいし、すみません。

でも、そう思えることは、とても素敵なことです。

それに、もし僕らの感じたことが、単なる勘違いでないのなら、

米林監督や僕たちスタジオポノックの作り手たちの志と、

セカオワのみなさんの気持ちは、とても近いところにあるのだと思います。

そう、思うに至りました。

 

つまり、「申し訳なく思った」どころの話ではなく、

もっとも相応しい方々に主題歌をお願いしたという確信が、

今更ながらに生まれたのです。

 

それと同時に、眼前が晴れた気がしました。

セカオワのみなさんが作る主題歌、

ぼくらの映画を締めくくる主題歌に、

必要なものがわかりました。

 

それは、繰り返しになりますが、

魔法はいつか消えてしまう。

でも、そのときに自分が持っていたものに、ひとは気づく。

そして、自分の力で、前に進んでいく。

 

「メアリと魔女の花」の終わりにかかる主題歌と、

仮にセカオワのコンサートの最後を締めくくるラストの曲があるとすれば、

それは同じなのではないか。

セカオワのコンサートにいき、めくるめくセカオワワールドを堪能したファンの方々が

その最後、現実に引き戻される直前に、セカオワからファンの方々へ贈られる応援歌。

現実を立ち向かう勇気の歌。

背中を押されるような歌。

 

学校にいて、職場にいて、現実は時に過酷です。

でも、大丈夫。

でも、この曲を聴いて、ちゃんと立って前を向いてごらん。

自分の力で、前を向いて。

メアリのように、何もなくても。

 

目の前が暗闇だと、不安はある。

目の前には、もしかしたら、道がないかもしれない。

もしかしたら、ときに崖っぷちかもしれない。

でも、暗闇の先には、幸福があるかもしれない。

未来が見通せないことを、ひとは不安や絶望というけれど、

未来が見通せないからこそ、ひとは希望を持てる。

 

冒頭のメアリのように、

鏡の前で自分を見ていても、ひとは何も変われない。

自分の姿を、もって生まれたものを嘆いてみても、

決して慰められることはない。

ひとがもし、変われるとしたら、
自分以外の何かのために。

自分ではない誰かを思うからこそ、

自分ではない誰かに思われるからこそ、

ひとは変われる。

誰かがいるから、勇気を振り絞って、

暗闇の中に一歩を踏み出すことができる。

そして、希望とは、

その一歩を踏み出した人間にだけ見える光。

 

 

今現在、いただいたデモ曲で、足りない物が分かりました。

愛をもらい、やさしさをもらい、雨に濡れずに済んだ僕。

虹は消えて、その雨は土に返り、新たな萌芽を有む。

 

でも、

 

その僕が、

次は、自分で立ち上がる日が来る。

誰かに傘を差し出されるのを待っているだけじゃ駄目だと、

分かる日が来る。

「メアリと魔女の花」を見て、やさしさや勇気をもらえた僕、

セカオワの楽曲を聴いて、愛と安らぎをもらえた僕は、

映画の後、コンサートの後、

こんどは、自分の力で一歩を踏み出さないといけない。

自分で前を見据えないといけない。

そして、こんどは、誰かに手を差し伸べられる強さを持ってほしい。

ピーターに手を差し伸べたメアリのように。

 

「君」が「僕」に、くれたのなら、

こんどは、「僕は」歩みださなければならない。

受動的な歌は、最後は能動に変化する必要がある。

 

====

君が笑う 誰もが虹を見上げても

君はいつも雨ふりの日に (僕に)傘を差してくれたんだ

====

 

この映画は、「君」がくれた気持ちに対して、感謝する「僕」だけでは足りない。

「君」をみて、立ち止まっているだけの「僕」では足りない。

「君」が気持ちをくれたから、「僕」「は」どうなるのか。

庇護される側で終わってはいけない。

いずれ力をつけて、こんどは庇護する側に回らないといけない。

自分の足で、すっくと立って、前を向いて、

こんどは誰かを助けてあげられるように。

 

内省的に閉じるのでなく、そこから外へ向かえるように。

回顧で終わるのでなく、未来を見据えられるように。

癒しでは終わるのではなく、勇気をもてるように。

そして、最期に、夏映画にふさわしい元気が出る音楽に。

 

 

そういうことを思いました。

 

 

プロデューサー 西村義明