映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録

(パイロット版スタッフMTGの続き。)


 で、ここにきて問題になるのは何かっていうと、それをスタイルとして思い始めた途端に、スタイルっていうのは数が増えると飽きちゃうんですね。飽きるっていうんじゃなくて、当たり前になる。せっかく一生懸命やったことが、もう普通になってしまう。たとえば、テレビでやってた例の、やさいかなんかの(松尾さん「野菜の妖精?」)ああ、「野菜の妖精」。あれなんか上手に一生懸命やってるんだけど、やっているうちに、たぶん、当たり前になっていくと思うんですね。それはいつも宿命として覚悟してなきゃいけないですよね。そうすると、だから、こういうのをエライ手間をかけて、例えば線を繋がないままで、余白なんかを作ったりして、「山田くん」のときよりもっと面倒くさいことになるにも関わらず、そんなことをやるって、まぁ、分かってるだろうから、そこをはしょってるわけですけど、そういうことやろうとしているわけなんだけど(笑)そういうことやるに値するかっていうのは、そういうことと関係が有りますよね。なんていうかな、どうせ当たり前になっちゃうのに、最終的には当たり前になるんだからセルアニメだって同じだよ!セルアニメだって、本当らしい感じはしなくても、作品の中に入って没入すると、みんな結構リアルに観るわけだから、とういことを僕自身もそうだけど、彼も、みんな、分かっていないわけじゃない。それはそうなんです、自分もそうなんだから。そのセルアニメを見ていて、いつのまにか、セルアニメだってことを忘れたりしてるじゃん。だから、それと同じ意味で言うと、スタイルとして捉えたんだったら、こういう様式って、大変な努力をして、なんか、面白い画面にしたねぇ、ってぐらいで終わっちゃうんですね。終わるって、それだって努力としては大変なことなんだけど。

 でもだから、その、一番最初に言ったのは、そのために言ったつもりなんですけど、やっぱりなんか、本物がどっかにあって、それを今ここでスケッチしてます。この映画っていうのは、そういう、本物の気分を出そうと思って努力してる過程がここにありますっていう、なんかちょっと、上手に言えないですけど、そういう感じがしたほうがいいっていう、それで初めて意味を持ちはじめる。スタイルとしてだけ見るんじゃなくて、その都度、意味を持つっていう感じ。

 例えば、もうひとつ言いますと、えっと、他のときにも感じたときがあるんですけど、大塚伸治さんとやった、その、あの「狸」の映画のときに、えっとですね、ずらずらずらっと描いて、それであの、クイックアクションレコーダーに入れてみたらですね、「あぁ、感じ出てるじゃない!」って、これで行きましょうって。ところが、そこを整理して、綺麗にして出来上がるとね、あぁ、なんか勢いがなくなったな、とかね。そうすると、そういうザッザッていう線のときには、ザッザッていう感じを残したほうが何かね、そのときの気分になるように。スタイル上そういうふうになるわけにいかないっていうかな。そうすると、ザッザッと描いたりして、余計な線が、勢いのある線が、いわゆる流線じゃなくて、その物を捉えるために、こう、描いた線なんかが、残っちゃったもののほうが。そういうものを許容する画面、許容ってのは、そういうものが入ってきてもおかしくない画面。

 ところが、普通のセルアニメだったら、もうおかしいですよね。突然そういうものが入ってくると。違う表現をしているように見えちゃう。だから、そこらへんが、この、スラ~っと、こう、そんなふうになることもあるし、そんなふうにならないことのほうが多いわけですけれど実際。あの、そういう風に行きつ戻りつ出きるようなね、そういうものは、今いったように、この、ある物をこう、気分を出そうと思って描いているんですよって、ことでいければね。それに越したことはないかなっていうことがあって、その試みの一つとして、この作品が出来ればいいなぁ。

 と思いながらですね、じゃぁその描いてもらう人達みんなに奮起してもらって、全部あなたの思うように、その、気分出そうと思ってね、どんどんやってくださいって、言い切れるかなというと、長篇だと、そこまで言い切れないんですよ。一定の、当然のように、一貫性がないっていう、見る人にね。いわゆる感情移入じゃないかもしれないけど、「狸」のときなんか、そう思ったんですよ。「狸」の映画って、本物の狸を描いて、それからその、いわゆる漫画だけどああいうタッチになって、それから、とうとう杉浦ダヌキっていうかな、杉浦しげるのようなタヌキになったり、そうすると、そういうことをやるっていうのは、どんどん、人を冷ますっていうかな。感情移入しようと思って、心を入れようと思っても、その主人公なり何なりについていこうと思ったら、えっと、突然だって、顔が変わったりなんかしたら、たまんないですよね。せっかく付いていこうと思った気持ちをそがれちゃうわけですよね。でも、あの場合は、そがれても良いと思って、作っているわけですよね。だから、そういうことは自覚的でなきゃいけないっていうかな、ここはそがれてしまうとか、ここは気持ちを、こう、ここは観客が感情を入れてもらわなきゃいけないとか。そういうことが長篇だし、様々に入れ替わって変わっていくように作らないと、その、「新しい斬新なスタイルだから、冷めてもらっても良いんだ!ずーっと冷めてみていてください」ってわけにはいかない。で、そうなると、その、様々な形で、その、コントロールしながら進んでいかなくちゃいけない。で、それはもう、やってくれると思うんんですけど、(田辺さんを見て)ガッハッハ(笑)。

 そういうことでいうと、キャラクター設計図の問題があって、佐々木さんからしばしば指摘されて、普通、ま、ここはこんだけしかいないけど、もっと増えていく場合だったら、問題が起こるだろうって。要するに、キャラクター設計図みたいなものがちゃんとあって、それに基づいて、それを基準として描いていかなくちゃいけない、というのが今までの、普通のスタイルなんで、それを、その、そういうものを全然作らないっていうんじゃないし、作って、作りかけたりしてるけど。でも、基本的に、かなり大幅に違っていてもいいんじゃないかっていう考え方を持ってるんですよ。ただ、大幅に違いがあるっていうのが、その、分業した人の数だけ違いがあっていいか、っていうと、そうはいかないっていうのが、さっき言ったことで。そうすると、統一をとらなくちゃいけないけれど、その統一をとる、っていうのは、この場合、田辺くん、なんですね。で、それは、彼の補佐をしてもらう、えっと、ここで言うべきかどうかは知らないけれど、ま、そういうことも当然、全体として数が多すぎるんで、そういうこと考えてるんだけど。ま、どっちにしても、彼の絵、として、であると、で統一を取るっていうことは考えてなくちゃいけないんですけど、あの、そん中での幅っていうのは、広げていいんじゃないかっていう。

 これは、例として言いますけど、近藤喜文さんという、もう亡くなっていますけれど、彼と仕事をやってきて、それで、えっと、その時代から考えたら、彼がやってくれたことっていうのは、僕も、それをしきりと、まぁ、日常モノではあるものの、あの、彼に要求したし、彼も好きだったろうと思うだけど、その、要するに、表情が多かったもの、ですよね、当時からしてみても、表情を、描く。で、そうしたときに、表情を作るときに、キャラクター、えっと、彼は非常にこの、きちんとキャラクターを作る人間ですから、あの、当然キャラクター設計図を作るし、それから、等身なんかも絶対外さないように、もう、えっと、「おもひでぽろぽろ」の時には、ものさしで計ってましたからね(笑)あの、レイアウト返す時に。要するに、それに基づいてくれたら、要するに、後で楽じゃないですか、作画、作監修正のときに。だから自分でその、修正を、修正じゃないや、付けるときにね、キャラクターの等身を計ったりして、カッハッハ(笑)すごい(笑)で、なんだけど、そういうきっちりとしている人なんだけど、でも、そう、表情も好きだった。でも、やっぱ幅があって、その。

 僕なんかが勝手に言ってたのは、結構同じ人でも結構違うように見えるよって、特に子どもなんかはっきりしてるのは、あの、泣いたりしているときにはまるで違う顔になってなくちゃ、なんか、うぅわ~って。あ、まだ?まだですね? (濱田くん「あ、まだです(笑)」※濱田くんは1月末に第一子が生れる予定) いつごろですか? (濱田くん「今週末予定なんですけど、遅れてて」) ね、だからね、子どもなんかビックリするね、違いが、なんか。

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