映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


 2010年6月24日、米林宏昌監督の映画「借りぐらしのアリエッティ」が完成した。高畑さん、田辺さん、佐々木さんと僕は、四人で五反田にあるイマジカへ初号試写を見に行った。

 映画を見終えた後、ぼくらはイマジカを出て、散歩がてら目黒川沿いを歩き、こじゃれた喫茶店で珈琲を飲んだ。四人で色々と感想を言い合う。あそこが良かった。あそこはイマイチだった等々。他人の作品になると大抵、みな饒舌になるもんだ。でも、それこそが健全だと高畑さんは言う。


高畑さん「ジブリでは社内で出来上がった作品の感想とか、意見交換とかしませんよね。あれ、良くないですよ。それが現代っぽいのかもしれないけど、ぼくらが東映動画の頃なんかは、みんな他人が担当した話数なんかケチョンケチョンに言ったりしたもんですよ。自分が作った作品ももちろん、あれこれ言われたりしてね。でも、そういうのがあったほうが健全ですよ。あれよりも、ずっと良い映画を作ろうという想いを仲間と共有するとか。他人の作品を色々と言った手前、こっちはちゃんとしたものを作らなきゃ、と思ったりね。」


 その日も、高畑さんと僕らは色々な意見を交わしたわけだが、その中で高畑さんが言ったある言葉が、僕にグサリと突き刺さった。その言葉は、公開を間近に控えた今でも、深く突き刺さったままだ。

 高畑さんは、こう言った。


「あの作品には、現場のプロデューサーがいなかったんでしょうね。そういう映画でしたよ。若い監督が作るときには、傍らにやはり若いプロデューサーが付くべきだと思うんです。鈴木さんのような偉いプロデューサーとは違いますよ。現場のプロデューサーです。現場に張り付いて、命をかけてでも、良い映画にしてやろうと考えるプロデューサーです。あの映画には、そういう現場のプロデューサーがいなかったんじゃないでしょうか。」


 なぜ、この発言を、ぼくが克明に覚えているのか。それは、第一に、高畑さんが普段、使わないような言葉を使ったからだ。「命をかけて」なんていう前近代的な精神論で語られるような言葉を、高畑さんが使うのは珍しい。ただ問題は、その言葉を使って、高畑さんが何を言おうとしたのか。いや、何を言おうとしたのかではなく、結果として、高畑さんが何を言っていたのか、である。

 高畑さんは、そう意図していなかったかもしれない。ただ、僕には、こう言っているように聞こえたのだ。


「西村くん、君はこの映画に、命かけろよ。」


 自分は「かぐや姫の物語」に"命をかけて"いるのか、たまーに、あのときの高畑さんの言葉が、今でも僕を問うてくるときがある。

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