映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


 絵コンテ作業を地道に進める傍ら、高畑さんと画面スタイルの話をすることが多くなっていた。
 

 高畑さん「日本のセルアニメーション、特に宮さんがやってきたようなのは、背景が緻密で空間があって、やたらリアルでしょ。そのくせ、キャラクターは単純な線で描かれていてペタっとしてる。一枚絵で見れば一目瞭然で、背景とキャラクターは全く別モノ。それが画面に同居している。ほとんど多くの人が慣れてしまっていますけど、本来は変ですよね。

 でも、宮さんの映画は、あれで良いんです。なぜなら、宮さんの映画っていうのは、観客が主人公の目を通して映画の中の世界を見ていくでしょ。観客は主人公に同化して見たりもする。そうすると、キャラクターは感情移入しやすいように、抽象的で単純なほうが良いんです。リアルに具体的に描かれちゃうと、妙な実在感がでちゃって距離を置きたくなってしまうんですよ。つまり、感情移入しにくくなってしまうんです。宮さんのキャラクターは感情移入がしやすいように出来ているんですよ。

 お客さんは、そのキャラクターの目を通して映画の世界を見る。だから、キャラクターはリアルじゃなくていい。具体的じゃなくて抽象的な方が感情移入しやすいですから。キャラクターの目を通してみる世界、つまり背景だけが、リアルであれば良いんです。背景だけがやたら緻密でリアルなのは、一定の成功を収めるんですよ、宮さんの映画では。ああいう主観的に見ていく映画の場合ですね。

 ただ、ぼくは客観的と言うか、一定の距離を置くような映画を作ってきたつもりですから、映画と距離を置いてみてもらおうとすると、キャラクターと背景の様式の違いというのが、目立ってくるはずですよね、理屈で言えば。本来は同じでなきゃおかしいんですから。やっぱり一枚の絵に見えるような画面。それが理想ですよね。」


高畑さん「QAR(クイックアクションレコーダーの略。簡易で動きをチェックする機材)で見てたら、いい感じだなぁと思っていたものが、動画でクリーンナップされちゃうと、あれ、原画のときは勢いがあってよかったのになぁって残念に思うことが多かったんです。あの線の持つ力というのを何とか画面に残せないか、そう思ってきました。ひとつの実験が『山田くん』だったわけです。今回も鉛筆線の、原画の線というか勢いを殺さない画面作りですね、それが必要だと思っています。それを『山田くん』よりも進められないかと思っているんです。」
 

高畑さん「色に関してもポスターカラーじゃない、『山田くん』でやったような水彩調の画面が良いと思っています。それと塗り残しというか、『山田くん』のときは余白と読んでいますが。全部を全部塗りたくるんじゃなくて、ササっと力を抜いて塗りました、というような印象になるようなもの。線も含めて、一種の不完全さがあって良いんじゃないか、そういうものができないかと思っているんです。」
 

高畑さん「男鹿さんに描いてもらう背景も、緻密にやっていくんじゃなくて、抜いていく絵。所々、塗っていないところがあると、キャラクターの余白とも共鳴しあうはずです。空なんかもジブリの青い空じゃなくて。どうなるかはやってみないとわかりませんが、日本画っていうのは、空を青く描いてこなかったんですよね。だって青の顔料がないんだから。空は塗らないことで表現したんです。そういうのを応用するというのもある。青空を描かないで空を表現できるかという。

(フレデリック)バックさんの『クラック』っていうのが凄い作品だなぁと思ったのは、まず空間があって、そこに人物が配置されるというのではなくて、人物が動くことによってそこに空間が立ち現れるという。画面で描かれていないところにも、もちろん何かがあるのでしょうけれど、そういうものは描かない。『山田くん』でも、そういうところは参考にしたんですけどね。」


 画面スタイルに関するキーワードが、どんどん出てくるようになった。一枚の絵、線の勢い、水彩、余白、抜いた美術、人物とともに立ち現れる空間。正直に言うと、僕にはこの時、高畑さんが目指している画面が、イメージできていなかった。だって言うことが難しくて(笑)。そうこうするうちに、高畑さんが言った。


高畑さん「そろそろ、テストカットを作りませんか。」


 テストカット。映像を作る。高畑さんが目指そうとする画面を、この目で確かめたい。

 ぼくらは、撮影の泉津井さんという助っ人を仲間に引き入れ、数カットのテストカットを作ることになった。

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