「かぐスタ」への引越しを目前に控えた2010年6月7日、高畑さんと僕は、男鹿さんに会うことになった。「借りぐらしのアリエッティ」の美術作業が全て終わったとの知らせを受けて、男鹿さんに「かぐや姫の物語」の美術監督を引き受けてもらうべく、最後のお願いするためだ。引き受けてくれるのか、それとも……。男鹿さん、最終決戦である。
その日、僕は高畑さんをご自宅に迎えに行った。高畑さんは助手席に乗り込み、車を走らせて男鹿さんのアトリエへ向かう。予想より道が空いていて、約束の時間の30分前に到着してしまった。早めに押しかけるのも失礼だろうと、高畑さんと僕は近くにあったコンビニエンスストアに車を止めて待機することにした。高畑さんはお茶を、僕は缶コーヒーを買って、車内で飲みながら。
西村「高畑さん、今日は大事ですからね。宜しくお願いしますよ。男鹿さんに頼んでくださいね。」
前回のことがあったので(参照:2013年6月25日の日誌)、ぼくは念を押した。今回はお茶を濁して終わり、というわけにはいかないんだ。絶対に。
高畑さん「ええ、それは、はい……分かっています。」
約束の時間の5分前に男鹿さんのアトリエに到着した。アトリエと言っても、アパートの3階にある質素な1部屋である。ぼくらは階段を上り、チャイムを鳴らした。
男鹿さんと奥さんが笑顔で出迎えてくれた。お邪魔します、と部屋に上がる。初めて見る男鹿さんのアトリエに興味津々の高畑さんと僕。六畳二間の2DKで、床はフローリング。手前の一部屋にソファーとテーブルがある応接スペース。本棚には美術の参考にするのだろう、色々な写真集がある。奥の一部屋には幅180センチの美術机が置かれており、筆や絵の具が整然と置かれていた。ラジカセからはAM放送が流れている。これが、日本一のアニメーション美術家の仕事場か。
ソファーに座ると、奥さんがお茶とお菓子を出してくれた。お礼を言うと、「ごゆっくり」と言って、奥さんはニコリと笑いながら部屋を出て行った。部屋には高畑さんと僕、そして対座する男鹿さんの3人だけになった。緊張する。奇妙な沈黙の時間。
その沈黙を破ったのは高畑さんだった。
高畑さん「いやぁ、いいところですね。窓から川も見えるし。あの川なんて……、」
と、懲りずに雑談を始めようとする高畑さん。ダメです、今日はその流れじゃないんです。僕は間髪入れずにカバンから脚本を取り出し、高畑さんと男鹿さんの間にスッと差し出した。高畑さんは、置かれた脚本をチラっと見たのち、ひとつ頷いて、男鹿さんのほうに顔を向け、照れながら話し出した。
高畑さん「あの、いやぁ、まぁ、そういうことなんです。あはは。あの、色々と難しいこともあると思うんですが、男鹿さんのこの間の仕事を、全部じゃないにせよ、見てきて、その、男鹿さんにとっても挑戦し甲斐のある仕事なんじゃないかって思うんです。ぜひ美術監督をお願いできないでしょうか。」
高畑さんの精一杯のお願いだった。ぼくは高畑さんが喋っている間、正面に座る男鹿さんの顔を見続けた。男鹿さんは高畑さんの言葉を真剣な顔でじっと聞いていた。そして、高畑さんが話し終えると、男鹿さん特有のニタッという無邪気な笑顔でこう言った。
男鹿さん「はい。こちらこそ宜しくお願いします。」
即答だった。たった数十秒のやり取り。快諾。男鹿さん、快諾。ぼくは握った。心の拳を握った。男鹿さんが引き受けてくれた。美術監督を絶対やらないといっていた男鹿さんが、美術監督を、引き受けてくれたのだ。僕は、心の中で、何度もガッツポーズをした。高畑さん、やったね!
高畑さん「ありがとうございます。宜しくお願いします。あはは。」
その後は、作品のことを話したり雑談したりで小一時間くらい過ごした後、高畑さんと僕は、男鹿さんのアトリエを後にした。車に乗ってエンジンをかけようとすると、僕の携帯にメールが届いた。田辺さんからだった。
「順調ですか……? 田辺より」
ぼくは、短い返事を出した。
「男鹿さん、やってくれます!」
高畑さんと僕は、とてつもない喜びを感じながら、田辺さんの待つスタジオに戻った。