ガラス張りの正面からは、中のスペースを見ることができた。室内の明かりはついていないが、目を凝らせば何があるかは見える。10数台ほどの鏡台がある。元美容室か。1段高くなっているところがあるが、そこには髪を洗うシャンプー台が置かれていたのだろう。広さは100平米強。外見も元美容室だから少し洒落ていて悪くない。
ここだ、と思った。準備室としては十分なスペース。そのテナントスペースの下には、ジブリのスタッフも頻繁に昼食に訪れる喫茶店「hike(ハイク)」がある。ここなら、ジブリのスタッフも昼休み時に高畑さんの現場に遊びに来てくれるだろう。高畑さんも気分転換が出来る。雑居ビルの閉ざされた空間ではないし、ひとたび外に出れば、人通りも少なくない商店街の賑わいだ。田辺さんも気分を変えられるだろう。さらに横には小さな公園があり、ブランコがある。高畑さんはブランコが好きだ。喜ぶかもしれない。ここだ。
ある日の晩、高畑さん、田辺さんと、東小金井駅南口にある「田舎屋」というお店で夕食を食べた後、僕は二人にテナントスペースを見てもらった。
田辺さん「いやぁ、緊張しますね。本当に借りるんですか。」
高畑さん「へぇ。あはは。いいじゃないですか。あの鏡を残してアニメーターが動きを研究すればいいんですよ。」
高畑さんもジブリを出て、こういうテナントビルの一角に入ることに、少なからぬ疑問があったはずだ。しかし、それを僕は詮索するつもりも、解決するつもりもなかった。どうしたところで、この引越しは決定事項なのだ。僕らはジブリのスタジオを使わずに、ジブリのスタッフを使わずに、一本のジブリ作品、一本の長編アニメーションを作っていかねばならない。ぼくは、そのテナントスペースに決めることにした。そして、一か月以内で引越しを完了すべく準備を進めた。
新スタジオの名称を考えろと言われた。ジブリという名称で看板を作ってしまうと、色々な人が来たりして面倒なことになりそうなので、違う名前にしようと思い、ぼくは田辺さんにアイディアを求めた。
田辺さん「西村工房。西村事務所。西村製作所。スタジオ西村。どうですか?」
西村「いや、それは……。それに、それだったら高畑工房でしょう?でも高畑さん絶対、嫌がりますよ。」
田辺さん「そうですね。でも、分かりやすいほうが良いと思うんですよ。たとえば、下が喫茶店『hike(ハイク)』じゃないですか。シンプルに『スタジオ・ウエ・ハイク』なんてどうですか」
却下。新スタジオは、「かぐや姫スタジオ」、通称「かぐスタ」とシンプルに決定し、制作準備を継続することになった。
あるとき「かぐスタ」からタクシーを呼んだら、「ジブリさんは今度は、家具も始められたんですか」と聞かれた。不思議に思ってタクシーに付いているモニターを見ると、『ジブリ家具屋スタジオ 西村さま』と書かれていた。