映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


 マイケル・アーントが語りだした。


マイケル「ぼくが脚本家のキャリアをスタートしたとき、手元には5本の脚本がありました。それらの脚本は、低予算で作られることを想定していたため、家族とか恋人とかのささいな出来事などを扱ったものが多かったのですが、どこに持っていっても誰も興味を持ってはくれませんでした。大手も独立系配給会社も全部ダメで、何年たっても脚本は売れませんでした。

 苦しい時期でした。ぼくは、もう脚本家をやめようと思いました。ぼくには才能は無いんだ、もう諦めようと。そして僕は傷心旅行とでも言うか、西海岸から東海岸のニューヨークまで旅をすることにしたんです。その旅行を最後に、脚本家の夢は諦めて、違う仕事を始めようと思っていました。

 ニューヨークに着くと、MOMA(近代美術館)で『ジブリ回顧展』(1999)というものをやっていました。ぼくは興味があって立ち寄り、そこで、ジブリの、高畑さん、宮崎さんの仕事を知りました。MOMAではジブリの映画を見ることも出来たので、ぼくは全てのジブリ作品を見ました。『トトロ』も『火垂るの墓』も見ました。『千尋』も『もののけ』も。全部見ました。どれも本当に素晴らしいものでした。そして、最後に見たのが『ホーホケキョ となりの山田くん』だったんです。」


 そこでマイケル・アーントは、一度、話を止めて、大きく息を吸った。


マイケル「ぼくは愕然としました。そして、感銘を受けました。こんな映画があったのか。こんな監督がいたのか。この世の中に、何ら特別でない家族のささいな日常を切り抜いて、このような傑作を作り上げてしまう映画監督がまだ残っていたのか、と。そして、思ったんです。この人がいるのなら、こういう映画があるのなら、ぼくもまだ脚本を続けられるのじゃないか、と。

 ぼくは、西海岸に戻りました。脚本は諦めるつもりでしたが、あなたの映画を見て、諦めることをやめました。脚本の執筆を始めました。あなたが『山田くん』で描いたように、自分の初心に戻って家族の日常を書こうと思いました。そして僕は、一本の脚本を書き上げました。それが『リトル・ミス・サンシャイン』という映画です。」


 高畑さんはじっと聞いていた。ぼくは横で鳥肌を立てていた。


マイケル「その脚本は、幸運にもアカデミー脚本賞を受賞しました。多くの方に見てもらうことができました。僕は脚本家を続ける権利を得ることができたのです。

 幸運は続きます。『リトル・ミス・サンシャイン』がアカデミー脚本賞を受賞する少し前に、ピクサーから連絡が来ました。『トイ・ストーリー3』の監督であるリー・アンクリッチが、脚本家を探していて、脚本家協会から色々な脚本を取り寄せて読んでいる中で『リトル・ミス・サンシャイン』の脚本が、非常に気に入ったと。ついては、『トイ・ストーリー3』の脚本をお願いしたいというのです。

 もちろん、ぼくは引き受けました。そして、ピクサーの優秀なスタッフと共に脚本を書き上げました。それが、映画となり、日本でも公開される。『トイ・ストーリー3』の脚本家として、僕は今、高畑監督、あなたの前にいます。

 ぼくがあのときMOMAで『ホーホケキョ となりの山田くん』を見ていなかったら、あなたがあの映画を作っていなかったら、ぼくは脚本家になることを諦めていました。『リトル・ミス・サンシャイン』も、『トイ・ストーリー3』も、高畑監督の作品と出会わなければ生まれなかった。全て高畑監督のおかげです。あなたにお会いできることをずっと夢見ていました。ありがとうございます!本当にありがとうございます!」


 そう言って、マイケル・アーントは泣いた。190センチはあるだろう大男が、涙を流していた。

 高畑さんが作った映画が、海を越えたハリウッドで、ある映画人に勇気を与え、ある映画に影響を与える。こんなに素敵なお話はない。

 そういえば、「リトル・ミス・サンシャイン」の中で、ガソリンスタンドに娘を置き忘れて、家族全員が全く気付かずに出発してしまうというシーンがあった。これって、「山田くん」の中の、あのシーンですよね。


 20130703_1.jpg