映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


「……はい、じゃあ脚本は一応これで」
「は?」
 これで、って、つまりこれで終わりってこと?
 笑顔の高畑さんの前で私は固まってしまった。すると、田辺さんがポツリとつぶやいた。
「いやあ、脚本があがるとは思っていませんでした」
 何!? それじゃやっぱり、もう明日から来なくていいってことですか!?
 混乱する私を気遣うように、西村さんが声をかけてくれた。
「……坂口さん、呑みに行きましょっか」


 スタジオジブリの西村と申しますが、と、電話がかかってきたのは、確か2009年の7月の終わり頃。そして8月の頭のある暑い日に、私はスタジオジブリを訪ねることになった。高畑さんは、にこやかに迎えてくれた。初めてスタジオジブリを訪れることの高揚感と、そして何よりも事前にもらっていた「かぐや姫」の企画がとても魅力的だったため、私は舞い上がり、結果、自分が思うままのことを喋り倒してきたような気がする。夕方、「ただいま、楽しかったよ!」と、まるで、ランドセルを背負ったまま今日の出来事を語り出す小学生のごとく、純粋な興奮に包まれて帰宅したのをよく覚えている。
 それから約ひと月ほど、私は高畑さんのご自宅に通うことになった。「かぐや姫の物語」の物語の骨格を作り上げるためだ。といっても、「かぐや姫」のことだけを延々と話し込むわけではまったくない。折にふれて高畑さんが繰り出す話題はそれこそ多岐にわたっていて、アニメーションのことはもちろん、絵画のこと、日本語のこと、文化、芸能、歴史的事柄から最近のテレビ番組のことまで……。とめどなくあふれだす知の洪水に巻き込まれて、私は気持ちよく溺れ、心ゆくまで膨大な知識の海をたゆたった。そうやって頭が少し痺れた頃になると、高畑さんが「少し歩きましょうか」と言う。それで、西村さんと三人で連れ立って、近所をぶらぶらと散歩した。しばらくして戻ってくると、奥様が用意して下さったおやつが出てくる。それは美味しいお菓子だったり季節の果物だったり……。そしてまたあの魅力的な知の冒険が始まるのだ。それはもうどんな大学の講義より面白く、どんな講演会よりも刺激的だった。


 と、ここまで書いてきて、この日誌の題名が「悲惨な日々」だったことを思い出した。つらかったことといえば、思い出すのはある晩のことだ。議論が夜にまで及ぶと、例によって散歩がてら三人でよく夕飯を食べに出かけた。高畑さんはお酒を飲まない。それに戻ってからも企画の話は続くので夕飯はノンアルコールが基本だった。それでも、その時々の気分で美味しい夕飯を食べに出かけるのは、いつしか私の密かな楽しみになっていた。その日も「お腹が空きましたね」ということになって、高畑さんお勧めの魚料理のお店に行くことになった。店に入って席につくと、今日は新鮮な生牡蠣が入っているという。私が牡蠣が好きだと知ると、高畑さんはその生牡蠣を注文して下さった。やがて運ばれてきた牡蠣は、見事な大粒で味も濃厚、本当に美味しい生牡蠣だった。だけど、これほど美味な生牡蠣を水とお茶でいただくのは……さすがにちょっと辛かったです。

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