映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


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 高畑監督の「かぐや姫」の企画書を読んだときにまず抱いた感想が、「銀河鉄道の夜」の印象と似ていたと述べた。その理由の詳細について書いていこう。
 「竹取物語」の作中で具体的には明かされていない、かぐや姫の犯した罪の内容。その謎を綿密な推理と豊かな想像力によって解き明かしていく行為は、この上もなくスリリングで、有意義であろうことは容易に想像がついた。既存のテキストに対してひとつも嘘をつくことなく、しかし同時に、確かにこうであり得たかも知れない、という新機軸の解釈を打ち出せたとしたら、世紀に残る大傑作になるだろう。日本人なら誰もが知っている作品でありながら、誰もが見落とし、誰もが手をつけてこなかった宝の山がいま目の前にある。想像するだけでワクワクした。
 しかし一方で、謎として残されていたはずの聖域に踏み入り、一義的に解釈を固定してしまうことで、作品が本来持っていたはずであろうミステリアスな魅力は減じてしまうのではないか、という懸念もあった。謎は謎のまま放置されているからこそ面白いという側面もあるかも知れない。全てを明るみに出すことが最良とは限らない。ちょうど、すべての謎を詳細に解説してしまうブルカニロ博士の扱いに、他ならぬ賢治自身が辟易としたように。
 「かぐや姫」も同様に、丹念に積み上げたものを、どんどん解体していくことでしかその魅力を表現することのできない作品なのではないか。すなわち本作は、「決して完成させることのできない作品」である事実を証明するための企画なのではないか。そういう直観を僕は抱いたのである。


生意気にも僕は、こうした感想を率直に高畑監督に伝えた。監督は怒りもせずじっと耳を傾けていたが、話を聞き終わるとタバコに火をつけしばらく黙していた。それからおもむろに口を開いた。「あなたの銀河鉄道の話は興味深かったです。特にいくつかの点については、ほぼあなたに同意できます。でも、この企画に同じ分析が当てはまるとは思えません」
 僕はあっさり自説を引っ込めた。違うというなら違うのだろう。しかし今考えてみるに、実はこのときの発言によって、監督は僕と話す時間を設けることを善しとしてくれた気もする。「この作品はきっと完成しないと思います。」そういう天邪鬼な言葉にこそ、高畑監督は注意深く耳を傾けるタイプの人間であることは、後になってだんだんと分かってきた。
 こうして僕は次の日から、高畑邸に連日通いつめることになった。監督の壮大な構想を、細部からひとつひとつ構築していくために。監督の口から飛び出す話は、作品に直接的に関係することから、直接的には関係しないこと、そして全く関係しないことに至るまで、すべてがずば抜けて面白かった。物事をこれほどの深度と強度で考えている人間がいるのか!僕は唖然とし、感嘆し、圧倒され、心酔した。監督の口から出てくる言葉を余すところなくことごとく書き止めようと、一心不乱にノートを取り続けた。
 そして半年後―。
 ひたすら書き溜めた膨大なメモを元に、高畑監督の意図に可能な限り忠実に再現した(つもりの)脚本の初稿が完成した。その脚本を監督にコテンパンに駄目出しされた瞬間、僕は自分の実力不足を棚に上げて、なぜかある達成感を覚えていた。負け惜しみのように聞こえるかも知れないが、その当時は既に、悔しいとか悲しいといった月並みな感情を抱く精神状態を通り越していた。僕は自分の役目を終えたと思った。バトンを次のランナーに渡すときが来たのだ。同時に、こうも思っていた。やっぱり僕が最初に抱いた直観は正しかったのではないかと。
 しかし、本作は今まさに完成を迎えようとしているという。僕は自分の直観が結局のところ外れていて、どれほど嬉しいか分からない。この歓びの源は、高畑監督のもとに通い詰めたあの日々があったからだと思える。だからこそ、本作が公開される日が、今からただただ待ち遠しいのである。

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