映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


20130529_1.jpg
 高畑監督を前にして、「かぐや姫」の企画書を読んだ感想をおそるおそる切り出したときのことは今でもよく覚えている。僕はその時、自分の受けた印象を説明する上で、「銀河鉄道の夜」を引き合いに出したのである。
「銀河鉄道の夜」。日本人であれば、その名を知らぬ人はいないであろう宮沢賢治の未完の傑作である。実はこの作品には、四つの異なるバージョンが存在することをご存じだろうか。現在、世間で最もよく読まれているのは、最終的な第四次稿である。誤解を恐れずに言うならば、改定されるたびに作品はどんどん非論理的に、そして抽象的になっている、というのが僕個人の印象である。
 当初、ブルカニロ博士なる人物が明確な意図を持って実施した催眠実験としての銀河旅行は、まるで主人公ジョバンニの夢であるかのような体裁に変化していった。そのブルカニロ博士も改稿につれて姿を現さない声だけの存在となり、ついにはその声までもが消されてしまう。博士が、銀河の旅から得るべき教訓を主人公のジョバンニに延々と語って聞かせるラストシーン、ある意味で説教くさい作品テーマの部分も、第四次稿では見る影もなく、ごっそりと削ぎ落とされている。
 本作において、ひとつの星座は、ひとつの理念(パラダイム)を表象していると考えられる。科学を信奉する者は白鳥座で下車し、キリスト教を信奉する者は南十字星(サザンクロス)で下車する。死んだ人間がそれぞれに思い描くさまざまな「天国」。そうした全ての「天国」を貫いて走るのが、究極の真理としての銀河鉄道である。仮に違う宗教を信じていても、死んでから「天国」に行くまでのわずかな時間は、同じ空間を共有していたっていいではないか。いくつもの星座(パラダイム)を巡りながら銀河の中心に向かってひた走る銀河鉄道には、賢治のそうした祈りにも似た思いが見える気がする。そして初期バージョンの原稿では、ブルカニロ博士は割合と分かりやすく、そうした作品テーマを解説してくれていたのだ。
 しかし、個々の宗教を超越していこうという言い草は、それこそ極めて宗教じみている、と賢治自身も感じたはずだろう。個別の宗教に囚われることを否定したいと思いながら、結局のところ、“ブルカニロ教”という別の宗教をこしらえているに過ぎないのではないか。その矛盾に悩んだ結果、賢治は一度書いたものをどんどん削っていくという改定作業に没頭したのだろうと僕は推測する。賢治がもう少し長生きしていれば、「銀河鉄道の夜」は完成したのではないかとみなす識者もいるが、果たしてそうだろうか。さらなる改稿により、どんどん作品は削られていき、ついには何も残らなくなってしまった可能性すらある。というのは、「銀河鉄道」という超越論的な存在を想定している発想そのものが、既にどこか宗教的だからである。
 それゆえ、「銀河鉄道の夜」という作品は単体のテキストとして読まれるべきではない、というのが僕の持論である。第一次稿から第四次稿に至るまで、一度書かれた文章がどんどん消去されていく瞬間に放っている光こそが、この作品の持つ魅力の本質なのだと僕は考える。「銀河鉄道の夜」は、未完たるべくして未完なのだ。言うなれば「決して完成させることのできない作品」だったのである。
 なぜ、長々とこんな話をしているのか。それは「かぐや姫」の企画書を読んだときに抱いた感想が、「銀河鉄道の夜」について僕が持っていた印象ととても似ていたからである。その詳細については、次回、書くことにしたい。