映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


 高畑さんの映画を作り始めた当初、僕にはK氏という仲間がいた。年齢は3つ上だが、気さくな人柄で、ついつい敬語を使うのも忘れて話し込んでしまう。頑固ではあるが、気持ちが良く、いつのまにか人の懐に入り込んでいく術を持ち、格好をつけない。良い友人だ。

 彼と一緒に、高畑さんの家へ通い続けた。彼は高畑さんに怒られ、ぼくは飄々としていればよかった。彼が「主担当」で、僕は「副担当」の気分でよかった。責任は半分以下。気は楽だった。

 毎日、ふたりで社用車に乗って、途中の和食レストラン「さと」で親子丼を食べ、高畑さんの家へ行く。寝起きで少し機嫌の悪い高畑さんと会話を始め、夕食前に徐々に調子付いてくると、深夜まで会話を続ける。毎日10時間ほど会話し、そして帰る。帰りの車中、映画は何も進んでいないのに、「進んだかな?」「進んだよね?」と、自分たちを慰めながら。

 K氏が担当を降りてからも、僕とK氏は、K氏の自宅近くのロイヤルホストで、月に一度くらい、深夜に落ち合った。お互いの仕事の大変さを共有し、日ごろの愚痴を喋った。高畑さんのこと、田辺さんのこと、ジブリのこと。K氏は僕の置かれている状況を理解できる唯一の人物だった。

 K氏は、高畑さんの担当を降りて1年半くらい経った頃に、ジブリを去った。脚本家になるといってジブリを出て行った。30代後半から脚本家を目指すなんて無謀だ。ぼくは、K氏をとめた。妻子もいる。思い留まって、もう一度いっしょに高畑さんの映画を作ろう、そう言って引きとめようとした。しかし、K氏の決意は固かった。「子守唄」のときに脚本の素案を書き、それを高畑さんに褒められたことが大きかった。元来、物書きとして生きて行きたいと思っていたK氏は、すんなりとジブリを去った。

 K氏は、その後、脚本の学校へ通い、宣言したとおり、脚本家になった。若くて優秀なプロデューサーとタッグを組み、TVアニメーション全11話の脚本を、ひとりで書き上げてしまった。すごいもんだ。そして、K氏は今もなんとか脚本家としてやっている。締め切りに追われながら、TVシリーズの脚本を書いている。

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