映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


「子守唄の誕生(仮)」の企画期間、ぼくらは郷土資料を集め、実際に子守奉公をした方々の聞き書きなどからエピソードを抽出していった。でも、それは何のためだったのか。

 高畑さんは、以前、こう言っていた。


  「映画の骨格を作るには、二通りのやり方がある。一つは、物語の枠組みを作って、それを成り立たせるエピソードを作っていくというやり方。もう一つは、ともかく面白そうなエピソードを並べてみて、それにあった枠組みを考え、しかる後に 再び、エピソードを取捨選択する、というやり方。」


  「脚本が怖いのは、ストーリーを成り立たせるためにシーンが決まってくるというところ。脚本ありきで作ろうとすると、脚本家というものは、お話しを組み立てやすい材料で作ろうとするので、お話しのために、シーンを選んだり考えたりする。しかし、それでは、自分の描いている『子守唄の誕生』という映画のイメージとは、当然違ってきてしまう。」


  「もっと、自分のイメージを強める必要がある。描くに値するシーン、局面をイメージできていないといけない。お話しではなく、こういうシーンを描きたいというやつが必要だ。たとえば、背中に赤ん坊を背負った守子の少女たちが、集団で取っ組み合って喧嘩するとか、そういうシーンをやりたいがために、作り始める、という形にならなければいけない。でないと、 お話しを説明するための映画になってしまう。そんなものを作りたくはない。」


 多くのアニメーションは、脚本が出来てから、それに基づいてイメージを形作る。しかし、高畑さんと宮崎さんの映画の作り方は少し順番が違う。映画を作り始める前に、脚本を作り始める前から、何枚ものイメージボードを描く、あるいは描かせる。イメージを膨らませていく。そして、そのイメージを実現すべく、エピソードが作られ、お話が出来上がっていく。


 「映画には、描きたいと思うシーンが必要だ。」 


 お話を説明するための映画でなく、描くに値するシーン、エピソードの集積。それが高畑さんの映画であり、宮崎さん、ジブリの映画なのだと、そのとき学んだ。

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