映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


 高畑さんは、もちろん『柳橋物語』を知っていた。改めてこの機会に読み直してもらったが、反応は良くなかった。

 このおせんという女性は、「待っています」という約束を守り、待っているだけの女性だ。彼女の心情は、少ない台詞と、小説ならではの地の文で語られる。

 実写であれば、上手な俳優が、その存在感とともに、微妙な表情変化で好演してくれるかもしれない。しかし、線で描かれたアニメーションでは、そうはいかない。

 高畑さんは、アニメ「タッチ」のキャラクターと、能面の類似性にしばしば言及する。能面は、無表情である。面は変化せず、それだけでは何を考えているのか分からない。しかし、そんな無表情な能面が、演目の中で感情を宿す瞬間がある。喜怒哀楽を感じられる瞬間がある。しかし、それは観客がそう「察して」いるにすぎない。顔の傾きや陰影を手がかりに、あるいは人物が置かれているシチュエーションに基づいて、その人物の感情を見る側の自分たちが「察して」いるにすぎない。なぜなら「面」は変化しておらず、表情から感情を読み取ることなど不可能だからだ。

 漫画「タッチ」のキャラクターも、目鼻立ちがくっきりして表情豊かな米国産のアニメーションキャラクターと異なり、無個性で抽象的な顔をしている。その抽象的なキャラクターが、何も語らず、無表情で、まったく動かなかったとしても、彼らの感情は読者に伝わってくる。彼らの表情から感情を読み取るのではなく、置かれたシチュエーションに基づいて、ぼくらは彼らの感情を推し量る。嬉しいんだろうな、悲しいんだろうな、と。

 それは、日本人特有の「察する」文化に関係する。言わなければ分からない欧米文化ではなく、言わなくても察してくれよ、という日本文化が、能面に感情を宿し、無表情な「タッチ」のキャラクターに感情を宿す。日本のアニメーションは多かれ少なかれ、日本人の「察する」文化に頼っており、アニメ「タッチ」の大ヒットの理由はそこにある。高畑さんが話してくれたのは、そういうことだった。たぶん

 しかし、ただ待っているだけで、シチュエーションが変化しないおせんの心情は、どのように描けるというのか。結局は小説で地の文として語られる心情を、台詞を増やすことで描こうとしたり、ナレーションやモノローグで表そうとしてしまう。そんなものを作るのか。そのようなもの、アニメーションで作る意味があるのか。そういうことだった。たぶん。

 ただ、


  「ただ、明治物というのであれば、『子守唄』がある。あれだったら、彼が言っている明治的なるものを活かせるんじゃないか」


 唐突な提案だった。こもりうた?ぼくは何のことやら、さっぱり分からなかった。

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