映画「かぐや姫の物語」制作時に、auスマートパス会員向け
スタジオジブリ公式読み物サイト「ジブリの森」において連載された
「かぐや制作日誌 “悲惨な日々” 西村義明」(2013年4月15日~9月1日)を再録


 今思えば、あれは鈴木さんの満塁ホームランだった。そして、K氏の起死回生のファインプレーだった。

 ぼくらは「柳橋物語」を読んだ。面白かった。江戸の大火の描写は圧巻だった。田辺さんも読んだ。気に入った。山本周五郎の別の作品も、買って読み始めたほどに。そこでK氏は頑張った。踏ん張った。なんと、K氏は、あの田辺さんを説得してしまったのだ。

  「僕には次がない。あなたにも次はない。ここでやらなかったら終わりだ。やるしかない。描くしかない。」

 当時ぼくは、別作品の宣伝を兼務していて、田辺さんの説得は、もっぱらK氏が前面に立っていた。ある日の午後、K氏は僕の席にやってきた。手に2枚の紙を持って。
 

 田辺さんが、絵を描いた――。
 

 田辺さんが、キャラクターを――。
 

 分かりにくいかもしれないが、アニメーターとは、絵を動かす職業である。それとキャラクターを描きあげる作業とは違う。アニメーターとキャラクターデザイナーとは、違う人種なのだ。だから、上手いアニメーターが、感じの良いキャラクターを描けるというわけではない。

 田辺さんは、動かすことがべらぼうに上手いアニメーターだが、長編映画に耐えうるキャラクターなど、作ったことはなかった。「柳橋物語」のキャラクターを描くことは、彼にとって初めての仕事だった。初めて、高畑企画のために絵を描いたのだ。

 ぼくは、そのキャラクター達を見た。描かれたキャラクターは、B4にして2枚分。計10数体の主役と端役の顔が、表情が、描かれていた。ぼくは言葉に詰まって、K氏の顔を見た。坊主頭でいかつい眼鏡をかけたK氏が、眼鏡越しに微笑んだ。

  「田辺さんが、描いてくれたよ。」

 たった2枚だった。笑えてくるほど少なかった。でも、ぼくらにだけは、この2枚の意味が分かっていた。


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