今思えば、あれは鈴木さんの満塁ホームランだった。そして、K氏の起死回生のファインプレーだった。
ぼくらは「柳橋物語」を読んだ。面白かった。江戸の大火の描写は圧巻だった。田辺さんも読んだ。気に入った。山本周五郎の別の作品も、買って読み始めたほどに。そこでK氏は頑張った。踏ん張った。なんと、K氏は、あの田辺さんを説得してしまったのだ。
「僕には次がない。あなたにも次はない。ここでやらなかったら終わりだ。やるしかない。描くしかない。」
当時ぼくは、別作品の宣伝を兼務していて、田辺さんの説得は、もっぱらK氏が前面に立っていた。ある日の午後、K氏は僕の席にやってきた。手に2枚の紙を持って。
田辺さんが、絵を描いた――。
田辺さんが、キャラクターを――。
分かりにくいかもしれないが、アニメーターとは、絵を動かす職業である。それとキャラクターを描きあげる作業とは違う。アニメーターとキャラクターデザイナーとは、違う人種なのだ。だから、上手いアニメーターが、感じの良いキャラクターを描けるというわけではない。
田辺さんは、動かすことがべらぼうに上手いアニメーターだが、長編映画に耐えうるキャラクターなど、作ったことはなかった。「柳橋物語」のキャラクターを描くことは、彼にとって初めての仕事だった。初めて、高畑企画のために絵を描いたのだ。
ぼくは、そのキャラクター達を見た。描かれたキャラクターは、B4にして2枚分。計10数体の主役と端役の顔が、表情が、描かれていた。ぼくは言葉に詰まって、K氏の顔を見た。坊主頭でいかつい眼鏡をかけたK氏が、眼鏡越しに微笑んだ。
「田辺さんが、描いてくれたよ。」
たった2枚だった。笑えてくるほど少なかった。でも、ぼくらにだけは、この2枚の意味が分かっていた。