企画は、まったく進まなかった。企画の話はする。こうしよう、ああしようと、たくさん話す。しかし、企画は進まない。それどころか、高畑さんは監督することを受諾すらしていない。「君らがくるから、話すだけ。」これが高畑さんの姿勢だった。
高畑さんを説得するためには、高畑さんの考えを理解する必要があるだろうと思った。そのために、文字通り、勉強した。ただ、勉強しても映画はできない。だから、企画の話をする。しかし、「わたしは映画を作るなどと一言も言っていない」。これが高畑さんの姿勢だった。
難攻不落。力不足だった。何時間を費やしても、何十時間を費やしても、高畑さんを説得することができなかった。何百時間でも足りなかった。K氏とぼくは、週6日、毎日10時間、ずっと通い続けた。1年間続けても、まだ足りなかった。
高畑さんは映画を作りたくないのか。それとも、作りたいのか。高畑さんと話していても、分からなかった。口では作りたくないという。方々で作りたくないと言ってまわる。もう老人だ。もう定年だ。映画なんて作りたい人が作ればいい。そんなことを言う。
作る理由を欲しているのか。作るべき作品を探しているのか。分からない。なぜ、僕らと毎日10時間も話すのか。やっぱり作りたいのか。でも、作りたくないという。作りたいのか。作りたくないのか。ぼくらの頭の中はゴチャゴチャだ。思考は堂々巡りだった。
「高畑さんは映画を検討してくれているだけで良い。高畑さんが映画を作ろうとしているだけで、負けず嫌いの宮崎さんも奮起して映画を作り続けてくれる。高畑映画は、完成しなくてもいいんだよ。」 そんな声が聞こえてきた。無性に腹が立った。しかし、惑わされた。毎日が無意味に思えてくる時期でもあった。
ぼくの前に数人の前任者がいた。高畑担当を降りた理由は、みな同じだった。高畑さんが映画に向き合ってくれない。こんなことをしていたら、何も為さないまま20代を、30代を終えてしまう。そう言って、辞めていった。ぼくは、どうするのか。高畑さんの映画が、人生を問うてくる。