安曇野(長野)に向かうときは、食事休憩を入れ5時間ほどかかりますが、帰りは山々を下るせいか、4時間。

 

トラックダッシュ 往復ドライブにもだいぶ慣れてきたので、ちょっとくらい負荷をかけても大丈夫かなと思って、、

 

CS60してもらいつつ・・

 

ゴウゴウとまだハイウェイの耳鳴りのするなか、都内に戻ってきたその足で、武術の試験をうけてきました。

 

昇段試験と言うけれど、私にはどこをどう昇るかもわからぬ初めの一歩。

 

結果は、満身創痍となりました。イテテ…。

50になる超・武道初心者、自分の体力を過信しすぎた。

 

トラックダッシュ

 

試験20分前に明治神宮に到着したら、被験者はもう全員着替えて本番前稽古まっさかりで、

 

いそげっ と更衣室に滑り込んだら、、

やおら「刀をまたぐな!」。大師範にお叱りをいただく。

 

自主トレしようと持ち歩いていた木刀を、つい床に置いて、粗相したのであります。

 

「気をつけるでありますっ」

と申しあげた2分後、しかし道着を履く拍子にふらつき、、

 

「また跨いだな!何をやっている! 心得が成ってないんだ!」と、さらに大音量叱責をいただく。耳キーン。ネガティブ

 

まったくその通りです。

 

この30年、こんなふうに叱られることがあったかしら。若い頃ならベソをかきそうですが、師範の凛とした表情に一瞬見惚れる。溢れ出る使命感が、黒黒した御目に宿っている。

 

骨格からして、中央アジアの騎馬民族とかのDNAを引いておられそうな。

 

そして「武道 刀 またぐ 無礼」とスマホメモ。武道具に敬意を払うということを、じっくり歴史から調べてみよう。っていう発想が完全におばちゃんである。

 

ランニング

 

そういうことばかりに気を取られ、しかし肝心の体術は全くお粗末でした。試験中にいただくお題さえ、時々いみがわかりません。

 

「●段の突きをやりなさい!」

 

って。なに。●段ってどこだったかしら。それ習ったかしら。

 

こんな私の仕手役や受け役として、有段者の大先輩男性がお相手をしてくれるのですが、

 

「ここ持ちなさい、ここ(小声)」「もっと思い切りやりなさい(小声)」と、ずっと、囁きカンペ状態。

 

投げ技まったく決まっていないのに、勝手にエイヤッと、ひっくり返ってくださるし。

 

申し訳ないやら情けないやら。

私が有段者なら、こんな奴の試験相手はしたくない。

 

せめて、焦ったりパニくったりは避けたいと思い、

持参したシャスティカのセージミストを丹田やうなじに嗜んでおきました。

 

 

 

 

 

アピールみたいになるけど、新入荷のセージミストです。たった数本しか入荷していないので、神事や聖なるイベントに関わる方はぜひ試してください。

 

私は石が好きなので、20年間ほど清めのセージ葉やミストを使ってきましたが、こんなに精錬で、ピュアなエネルギーのあるセージミストは他に類を見ないと思う。靖子さんは本当に凄い方です。

 

ほんとうに一瞬で落ち着きました。

 

剣の実技に入るとき、「瞑想状態に入ろう」真顔と意識を飛ばしたら、、、、   

 

「ハヤカワさん?」

 

「ハヤカワさん。正眼の構えですよ」

 

例の大師範の大声で、ハッッと我に帰った。

被験者がみな剣を構えているのに、私の剣だけ、だらりと下がっている。

 

どうやら本当に意識が飛んだらしい。試合中に、信じられない。不安

 

このまま昇天できそうなくらい、気持ちは良かったけれど、

私が師範だったら、こいつに級などやらない。

 

 

 

ーーーと、試験終了後に同期たちに言ったら、「辛いっすね」と女子高生ちゃんに笑われました。

 

彼女は、試験の翌日が運動会で、その翌日から中間テストですって。

ひゃー…。県外から高速飛ばしてきたくらいで、おばはん過密スケジュールぶるところでした。JKの体力はすごいね。武道で心身充実しているから、学業も充実するのかな。

 

見ていると、彼女の松果体がシュンシュンと活動しているのがわかる、目がきらきらしている。

 

「0級」の私が言うことではないけれど、よろよろと武道をならい始めて、人のそういうエネルギーだけは、より見えるようになったと思います。

 

松果体が磨かれていく武芸の機会は、もっと多くの若者に与えられるべきじゃないかな…これも戦後に奪われた日本の財産ですよね。

 

究極のゴールは、死への恐れがなくなること、それが、もっとも欧米の人が恐れることなんだと思う。

 

ランニング

 

拙い私でも、体で発見させて戴けることがたくさんあります。たとえば「相手の中心へむかって行け」という教え。

 

相手を突き崩すその一瞬前に、中心へ向かい、融合しないと、相手の魂をとることはできない。

 

それはまさに、愛の気道 のように感じるんです。

 

実際はなにひとつ体得出来ていないんだろう。

でも他人様に体当たりでぶつかりに行かないと、「なにも出来ていない」ことがわからんのですよ。

 

ランニング

 

今、この騒がしい時代、「明るい光の時代が来ると信じて、ポジティブに祈って待ちましょう…」みたいに仰る方々がいます。

 

まあなんというか、お花が咲いとるという気はないけれど(言うとるが)、私は武学など嗜んで、備えた方がいいと思う。理由を挙げます。

 

一、この地獄みたいな時代こそ、すでに光の時代ではないかな。病人死人累々の今、暗闇にさす一条の光が見られないなら、この先も光を見ることはないんではないか。

 

二、「だれか救世主が私たちを救ってくれますように」とか「ネガティブなことを引き寄せちゃだめ」とひたすら祈っている人と、

人事尽くして天命を待ち、備え、または自分自身が灯りをともそうと戦っている人と、「神」がいるならどんな人を助けたくなるだろう?

光を求めて祈るばかりの頭の中を覗いて、その「神」はどう思うのだろう?

 

三、「愛 気道」という日本人独自の戦い方を、異国の人は恐れ、奪い、潰し、かわりに「戦いは悪、闘いは罪」という概念をにわかインストールし、平和ぼけさせたのでは。

 

なぜこんな大変な時代に「戦ってはいけない」と「思う」のだろう? 誰に「思わされて」いるのだろう。

 

殺し合いじゃないし「戦争」仕掛けるわけじゃない。

しかしこれ以上負けすぎないため、奪われすぎないため、「戦う」べき場面があるのでは?

これ以上、妖術をかけられ、頭に花壇を作られてよいのか。

 

四、武道を学ぶことは対人術でも仕事術でも、めちゃめちゃ得だと思います。

「CS60教えてー」とやってくる方々にも、受け売りだけど「ここをしめて、こうすると力点が…」とお伝えすると、喜んでいただける。武道とセラピーはとても有用な叡智の双方向性があるんだと思います。

 

 

 

 

 

学ばせてもらってる明治神宮の武道場は、私のように日本神話や天●制に冷ややかな人間にも、区別せず門戸を開いてくれます。未経験者にこそおすすめです。

 

ナイフ

 

最後に、「古武術の真髄」を語るのは、日本古武道にも造詣の深い苫米地先生。

 

これぞ最強の技ですよね。塩田剛三先生にも同じような金言があったとおもう。

 

 

 

 
 
 

 

「弱そう」こそ最強。というのは、こちらのコミックスでも。

 

 

 

映画化もされたのは知りませんでしたが、読み始めたらあまりにも笑いすぎて一気読み。

眠れなくなる、殺し屋アクションコメディです。