北八ッ彷徨
山口耀久著「北八ッ彷徨」
ずいぶん古い本ですが、懐かしい山の名著です。
1960年に初版、1980年に絶版というから、若い方は知らないかもしれませんが、
内容は、八ヶ岳をこよなく愛した作者の八ヶ岳紀行を中心にした随筆です。
青春の真っ只中だったぼくは、「彷徨」という言葉の持つ、なんともいえないロマンチックな
響きに惹かれて、読み耽ったものです。
「彷徨い」
多感な若者にとって、それはある種の悲壮な響きがあります。
「死」というものにたいする若い憧れ。
自分を見出そうともがき苦しむ若者にとって、青春の蹉跌をさまよい歩く果てに
あるかもしれない「幸福」か、それとも「死」か。
ぼくにとって、あの頃の山は、そういう「死」というものへの憧憬がなかったと
いえば嘘になります。
「絶対に山で死んではならない」と教え込まれたし、そう心に誓って山に出掛け
てはいましたが、心のどこかで、山を彷徨い壮絶な死を遂げることに憧れてはい
なかったか。
困難なルートに取り付く前の晩、なかなか寝付けないシュラフの中で、
「明日、もしかしたらやられるかもしれない」
と考えながら、そのことに言いようのない高揚感を覚えました。
吹雪の中を出発する朝、凍える手でアイゼンをつけ、ピッケルを持った瞬間に、
ふとわきあがる、おしつぶされそうな不安と恐怖。
「いくのよそうか」
と喉まで出かかった言葉を飲み込んで踏み出す一歩にただよう、あの悲壮感。
3月の八ヶ岳を南から北まで縦走しようと思ったのも、そんな山との付き合い
方をしていた頃のことでした。
この縦走については、ずいぶん古い話しだし、いつか別稿で書くとして、この時
ぼくの頭にあったのはやはり「彷徨」という言葉でした。
3月上旬の北八ヶ岳は一番雪の深い時期で、ラッセルは腰までは当たり前、下手
をすると身の丈も埋まってしまうほどの深雪でした。
雪まみれになって北八ヶ岳の原生林でもがく様子はまさに「彷徨」
「北八ッ彷徨」を地で行くような山行だったのです。
その懐かしい書に、最近再会しました。
大泉の金田一春彦図書館に蔵書としてあったのです。
ページをめくると、そらんじるほど読みふけった文章が飛び込んできました。
あの頃の山行が仲間の顔とともに蘇ってきて、あやうく涙がこぼれそう
になってしまいました。
来週は夏空も一休みというから、山登りに出掛けるのはお休みして、むかし読ん
だ山の本でもひも解いてみようかな。