あるもの
いつもと違うこと、書きます。
現代の「日常」がどんなにか「虚構」だったのか、痛切に感じたから、言いたいこと、書いちゃいます。
大震災から、もう何日たったのだろう。
あの時、撮影中だった。
地鳴りの音は、「飛行機が飛んでるんだ」
みんなの悲鳴は、ファインダーをのぞく私には、耳に入らなかった。
「みんな、外に出て!」
という叫びに我にかえっても、何が起こったのかわからなかった。
船に乗ってるみたいに、地面が揺れた。中越地震の時と同じだった。
悲惨な被災地を伝えるメデイア、原発の恐怖。生活物資の品薄、燃料の不足。
足元が揺らぐのは、地震の瞬間だけではなかった。
計画停電の日、うどんを打った。
うどん粉250グラムに、塩、水。
こねるこねる。
八ヶ岳に集まる仲間たちから贈ってもらったパスタマシンで、うどんを打った。
練炭で煮立たせた鍋で、ゆでること10分。
二人が腹一杯になる、美味しいうどんができた。
買い占め、私はしませんでした。
別に、妙な正義感にかられたわけではなくて、あんまり危機感がなかったのです。
だって、米も小麦粉も家にはあるし、燃料は森にいけば手に入る。
命をつなぎとめるくらい、なんとでもなるという実感があったのです。
小麦粉捏ねて、うどん・パスタ・パンにピザ。お米は七輪に土鍋で美味しく炊けるし、電気こなくても、空腹に苛まれるということはない。
「なければ、すぐに手に入る」
という前提が崩れたとき、
「なければどうするか」
と考える。
「買う」とか「手に入れる」という発想の、なんと貧弱なことか。
「なければ、在るものでどうするか」
創造力を働かせて、どうしたらいいか考えて、行動に移す。
うまくいかなければ、また考える。
買い占めに走る輩の、なんとクリエイティヴィティの貧弱なことか!
地震があったからって、無傷の自宅でカップ麺をすする一家の、なんと貧しい夕餉か!
「在るものでやる」
よく考えれば、当たり前のこと。
それができないのは、ひとえに、創造力の欠如。
地震当日、撮影現場から帰る道すがら、信じられない光景を見ました。
停電で灯りの消えたコンビニの駐車場が、クルマで埋め尽くされているのです。
それこそ「モータープール」みたいでした。
あとでお店の人に聞いたら、お弁当やおにぎり・カップ麺に水・電池を買いに来るお客さんだったとのこと。
「なければ買えばいい」
そんなことしか思いつかない人々が殺到したということなのか。
大好きなこの国の、悲しい現実を見た気がしました。