「平和」を調べると「戦争でない状態の事」と書いてある。
つまり、残念ながら「平和」は定義されていないのである。
定義されていない「平和」の為の運動や活動とは何なのだろうか。
60年以上懸けて自分なりに創り上げた「正しさ」の概念をロシアの馬鹿な指導者が一瞬で破壊してしまってから、どうも平和活動や反戦運動に今まで以上の馬鹿馬鹿しさを感じている。
平和運動自体が戦争へのプロパガンダである。
何故なら、当時を総括し水に流して忘れる事で次の世代の新しい関係の構築を目指すのではなく、当時の悲惨な記憶を事細かく掘り起こし、今一度記憶の目録として脳裏に焼き付ける事を目的としているからである。
8月6日はハチロクの日
昔、一度書いた事がある。
東京でハチロクと言えば「イニシャルD」かと言われる。
漫画や車好きには堪らない数字の様で、今では「86」を冠した車種が存在する。
ところが広島の原爆の日は全国的には大したニュースでは無い様だ。
長崎も同じ事である。
世界に目をやると殆どの国が知らない様で、更に関心が薄まる。
これも昔書いたが、米国ワシントン州リッチランド高校のロゴマークは「R」にキノコ雲である。長崎に投下された原爆のプルトニュウムを生産した街の誇りのようだ。
アメリカでは今だに「若い兵士100万人の命を救った」とされる原爆は平和のシンボルである。
もちろんその100万人に日本の若者は入っていない。
当時アメリカでは「日本人は小さく吊り目の醜い虫ケラの様な物」とされていた。
プーチンの言った、 「ウクライナ人は口に入った蛾のような物」と同じである。
相手を悪魔化し、憎しみのターゲットに仕立てて恨みを掻き立てれば、たとえ原爆で皆殺しにしても良心の呵責に苛まれる心配は無い。
何故なら劣等民族を排除したのだから。
残念ながら人間はその程度の動物である。
ボブディランの「正義の反対は悪ではなく別の正義」に当てはめると、プーチンの行為は我々にとっては「悪」だが、半数の国では支持されている、つまり「正義」なのである。
困った事だがこれが現実である。
先の戦争でも負けた国の行為は「悪」で、勝った国の行為は「正義」なのだ。
歴史とは勝った国の都合で書かれ、負けた国は認めるしかない。
仮に百歩譲ってプーチンや習近平を正義だとしよう、だがそこには問題がある。彼らには寛容がない。一欠片もない。
寛容のない正義は双方を滅ぼす。
つまり、世の終わりである。
今現在、国の内外で相手を挑発し、敵対させて混乱を招く活動が盛んである。正義感の強い人ほど相手をバカにして怒らせて人間関係を壊しながら、悪を懲らしめていると勘違いしている。
このままでは「戦争の元」、つまり憎しみ合いが野放しになってしまう。
かつての戦争と同じ道である。
その意味で先の大戦を我が国なりに総括しておくべきだったと思う。
私が親父や親父の戦友会の元軍人達に直接聞いた戦争の話と、巷間言われている戦争の話にはかなりの乖離がある。戦時中の親父の日記に書いてある事は間違いなく真実であろう。彼らはそれを発言する事を禁止されていたが、今思うと発言すべきであった。
東京裁判で「平和に対する罪」についてアメリカの弁護士が語るシーンがある。裁判記録から削除されて現在ではアメリカには残っていない部分である。敵であったはずのアメリカの弁護士が語る内容は今聞いても納得できる物だ。広島の学生には教育委員会の勧める平和教育よりこの映像を見せて議論させる事の方がよほど為になると思うほどの内容だ。
因みに、アメリカでは南京虐殺の部分も廃棄されている。
by がんこGG
東京裁判「戦争は犯罪ではない」ブレークニー弁護士