広島市は少しだけ嫌いな街 !!
終の住処は山口に決めている。その前に仕事の手伝いで広島に帰る。
東京と広島の2局で仕事をする。
帰ると決めて思い起こすと苦い経験ばかりが蘇る。
20代前半に広島で起業してから10年以上、地元の人に鍛えられてきた。
当時は「デザイン事務所」などと言う言葉からして気に食わなかったのだろう。
最初は会社の名前を伝えただけで目前の事務所契約を断られた。
「訴えたかったら訴えんさい、私等、痛うも痒うもないんじゃけー」
商店街に借りた事務所では玄関先にゴミを捨てられた。
「あんたあ、標準語喋るんね、何処の人ね」
仕事が完成し請求書を送ると2割程度の入金があり、「こないだ東京の業者に頼んだ時でもこんくらいの金額じゃった」「広島の業者が東京より高う取っちぁいけまい」
挙句の果てに「あんた仕事をしたからっちゅうて金が貰える言う考えは間違うちょるけーね」「世の中、舐めちゃあいけんよ」
市役所のコンペでデザインに困った中電技術コンサルタントの設計課長から相談されて相生橋のデザインを手掛けてから流れが変わった。真面に話の出来るクライアントは役所や東京からの業者ばかりでそれ以降地元の人とは関わらなくなった。
デザイン学校で講師を始めたり、いち早くコンピューターを導入したり、東京に事務所を出したのも、広島市民に虐められっぱなしだった反動だろう。
正直、今思い出しても頭から湯気が出るほど腹の立つ出来事がかなり多くある。
たかだか50年前の事だが、それほどまでに広島市は歪な人の集まりだった。
同級生や知り合いから聞いて、広島市民の特異性を知り納得したのは30代半ば、
その事は次の機会に話そう。
その歪な広島を創ってきた人達は半世紀の間に多くは居なくなったであろう。
市会議員も、設計事務所長も、パン屋の一族も、呉の政治家も、不動産屋も、
東京にへつらい、地元を馬鹿にし、そのくせ己に酔いしれ広島弁で捲し立てるガサツな輩・・・
とりわけ嫌いだったのは平和運動家である。
「私等は被害者じゃけー」で周りは手出しが出来ない、集まるお金は膨大な金額。
今だから言おう、直接間近で聞いたセリフ。
「アメリカさんのお陰じゃけー」
by 今では違う広島が有る事を夢見ている がんこGG