東京で「8.6」と言うと、「イニシャルD」か?と言われた。 ( その2

 

ついに八月六日に原爆関連の番組が地上波でゼロとなった。

オリンピック期間中であるから、との事であるが、外国の報道機関が集まっている今だからこそ世界に発信するチャンスと捉えないのだろうか。聞こえてくるニュースは菅首相が式典で挨拶文を読み損なった事ばかり、普通に読んでいればそのニュースすら無かったと考えると、広島出身者としては複雑な心境になる。

昔から個人的に思っていた通り、ネガティブ思考で被害者意識からの平和活動がそろそろ人心に届かなくなったのかもしれない。

 

 

 

原爆の碑に刻まれた言葉には主語がない。

「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」

碑にぬかずく一人一人、全てに責任がある事の表現であり、特定の国や人には触れていない。

訪れる外人に共通する感想は「原爆を落とした国に対する恨みが一言も無い」

事だそうだ。

戦争のみを恨み、国や個人の責任は追求しない。

この潔さは日本人の特徴であるが、この美学を持つ日本人の国民性に被害者意識からの平和運動はそぐわない、とずっと思っていた。

 

批判覚悟で言うなら、被団協の運動は、国策として有る事無い事を世界で吹聴するみっともない国の活動家にとてもよく似ている。

そんなみっともない活動は個人的に願い下げである。

 

いずれにせよ、悲惨さを訴えるだけの反戦活動では現実の争いを止める事は出来ない。

争いを止めるにはそれなりの力が必要で、平和を担保するには国防能力を高めるしかない。

 

「日本を戦争の出来る国にしてはいけません」と言った女優がいた。

 はたして、そうだろうか?

日本を、

戦争をしない国にする努力はいい。

だが、

戦争を出来ない国にするのは間違いだ。

反撃出来ない国の言う事など何処の国も聞きはしない。

優しさなどナショナリズムの前では無力である。

 

優しさが欲しければ力を得るべきだ。

喧嘩に強いやつにしか優しさは備わらない。

コロナで炙り出された各国のナショナリズムがオリンピックで強調され、対立の構図が鮮明になるなか、広島や長崎の平和活動がどれほどの抑止力になるのだろう。

 

何もかも考え直す時期に来ているのではないだろうか。