先日、シネフィルWOWOWで「夜の大捜査線」をやっていた。
久しぶりに何の気負いも無く、ただただ内容に没頭して観た。
これほど良く出来た映画を見るにつけ、いつも思う事がある。
今でも名作と言われる作品の共通点は「自分が体験出来なかった人生を、仮想体験させてくれる」ところである。
この事は小説でも同じことが言えるが、現実の自分では考えられない経験を痛みを伴って体験させられる感覚は病みつきになる。
実際には痛みは無いが、そう感じるのは登場人物に自分を重ねる事が出来るからであろう。
個人的に好きなシドニーポアチエの「野のゆり」も三船敏郎の「椿三十郎」も長い人生の中の「ある時期に起こった事柄の顛末」が描かれる。
「自分だったらこの時どうしただろう」と考えながら主人公の行動を、肯定したり、否定したりしながら最後には見ていただけの自分も主人公と同じだけ成長した気になれるのである。
描かれる人生で最も平凡なもの、今風に言えば「一切合切凡庸な」
中年の役人の最期をだらだらと描いただけ、にも関わらず世界中で高い評価を受けた映画がある。今でも英米のシナリオ学校で教材として使われているその映画は
「生きる」である。
人生とは何か? 生きる意味は? 明快とは程遠い回答を出す不思議な映画である。
かつて人生わずか50年、うかうかしていたら自分の身の置き場が見つからず、何かをする前に年老いてしまう。
志あるものは自分の命をかけるものを常に探していた。
「命をかける」とはその言葉の通り短い命を存分に使って役に立つ、
本懐を遂げるのだ。
最近「生き様」という言葉をよく聞くが、実際にはそんな言葉は存在していない。「死に様」という言葉があるだけである。
「生き様」とは「死に様」のことだ。
「ざまをみろ」と言う言葉は「死に様を見ろ」からきている。つまりは死に値する何かを成し遂げたかどうかを批判した言い方だ。
「腹をくくる」「首をかける」「一生に一度」「後生だから」
すべて、一度しかない短い人生の、死に場所を求めていた志のある人物の為の言葉である。
寿命が延び、社会が安定してからは、人間皆「のんべんだらりん」としてしまい「人生の意味」など考えもしなくなった。
談志師匠の言う「人生暇つぶし」に近づいているのである。
そんな普通の役人が「半年の命」を宣告されるところからこの映画は始まる。
「失うと知って初めて生きる事の意味を問う、人間の愚かさ」
予告編で橋本が問いかけたように残り時間を知って主人公は死に場所を探し始める。
あれでもない、ここにもない、どこかにあるはず・・・
まるで「最高の人生の見つけ方」の様に
さまよう挙句、見つけたのは「公園を造る事」
つまり自分の仕事であった。
このころの黒澤の演出は冴え渡っている。主人公の志村喬が自分の作った公園のブランコに揺られゴンドラの唄を歌う。まばたきもせずに涙を流し続ける志村喬。
脚本、演出、役者、表現できないほど最高である。
今の映画関係者に見せてやりたい。
そしてここからがこの映画の真骨頂である。
主人公の通夜がだらだらと続く、そしてそれは今の映画人では理解不能なほど長い。
しかも「ぶつぶつ」と話すばかりで何の展開もない。
だがこれがとても自然なのだ。
全ての役者が上手い、カメラワークがいい、ヨダレが出そうである。
個人的にこのシーンは「見ているあなたも考えなさい」と言われている様でそのための時間だと感じていた。主人公を褒める近所の主婦、手柄は自分だと遠回しに呟く上司、各人の呟きが 「A day in the life 」のように徐々に最高潮に達した時に左卜全が言うセリフ、
「助役が悪いと何故言わん」は個人的にこの映画の最も印象深いセリフである。
全てが終わって次の日、何も変わらない役場のシーンで映画は終わる。
「虚しい」「悔しい」という印象を持った方が多いが私は少し違う、「それでいい」と思ったのだ。
忘れられようが、顧みられなかろうが、本人が満足なら「それでいい」と思ったのである。
「何をしたかは他人が決める」「何をするかは自分が決める」
無様に野垂れ死のうが、志半ばであろうが、自分が決めたのならそれでいい。潔さとはそういう事だ。
最期が気の毒に、などと言うのは思い上がり、失礼千万。
人生とは「人生とは何か」を考える機会である、と言った人がいた。
だが必死で生きている人にはそんな機会など無い。