真実の霊より虚偽の霊のほうが何千倍も高次の働きをする。
半年ほど前に、シュタイナーのこの言葉を聞いてから、ずっとこの言葉のことを考えている。
普通は、「真実」を知りたい!「本当」はどうなの?とか、「ウソ」をつくな!「デタラメ」を言うな!の世界に棲んでいる。
シュタイナーは、ピアノが弾ける人が「弾けない。」と言ったときには、うそではなくて謙遜である。
弾けない人が「弾ける。」と言ったほうが、素晴らしいと言ったそうだ。
神様は「光あれ!」と言うと、光が現れた。
これも、ないところに、あれ!といったわけで、言ってみれば、「ウソ」なんだよね。
『宇宙のどこにもないものを、こうありたい!と言ったとき、
ないものをあるって言ったときに、
「おまえのうそ!それじゃ、その責任をとれ。」と言ったときに、
「はい、責任をとります。」
という、その責任のとり方が、人類の歴史をつくってきた。
あるものはある、ないものはないと言ったとき、歴史は止まる。』
これは、オイリュトミーの講義で聞いたことである。
先日のダンスワークショップで、「デタラメの限りの自己紹介」をやった。
神がつくようなできるだけ大きなウソがいいと言う。
3人ずつ、名前を呼ばれて、舞台に立って、何を言おうかとか考える暇もなく、口から出るにまかせた言葉。
タイタニック号が沈んでゆく、まさにその瞬間のように、考える余裕なんてまったくないせっぱつまった状況で、私の口から出た言葉。
みんなの口から出た言葉。
残念なことに、思い出そうとしても、正確に思い出せない。
先生は、1億年かかるかもしれないけど、言葉にしたことは、必ず、実現する。
しゃべったことの中には必ず真実が入っているって言ってた。
ということは、ウソをつこうと思っても、つけないっていうことか?
む、むずかしい。。。
もう一つの条件は一人称は使わない、三人称で自己紹介をするということだった。
「私は○○だ。」ではなく、
「彼(彼女)は○○だ。」
内実に関係なく、虚偽の方向へ向けて、バランスをとること。
カラダも殻なら、同じようなことが言える。
いつか実現するということは、自分の言葉に対して、責任をとるということ。
今の私は1億年前のウソの星のかけら。