今日のガストは混んでいた 私は名前を書いて待っていた
リスト上は、三番目だった しかし名前を書くということを知らなかった客が何人かいた 彼らは私よりも前に店内で待っていたようだ 慌てて私より後に名前を書いていた そこまでは良かった しかし店員に対し 「わしはずっと待っていた」とクレームをつけていた者がいた 店員は名前を書いた順にご案内してますと言ったが「あ?わしはずっと待っていたんだよ」と強く主張し私より先に案内された そのせいで私は10分も時間を無駄にした この店員の行為は正しかったのか考えたい
名前を書いた順に案内するのが慣習となっておりいわば規範となっていた それを破るのはいかがなものかと思う 規範に従い名前を書いた者の期待を大きく損なう 彼が名前を書いていれば、結局、私は10分遅れたのだから、同じことだと考える者もいるかもしれないが、現に名簿上に名前が無いのであれば、私が、あと少しかという期待を抱くのは当然であり、不意にそれが裏切られれば大きな不快感を感じることは言うまでもない
また名前を書かなかったのは本人の過失であり、過失がある者が損をするのは仕方がないことだ 入り口の目の前にある記帳に気付かないことに過失がないはずはない
しかし一方で、ずっと待っていたのに、後からきた者が先に案内されることに苛立ちを覚えるのも分かる
先に来た者を案内することが公平だという考えは分からないでもない
しかし、記帳に書き込まれた名前の順に案内することが慣習化されているのであれば、それが規範であり、規範に従って案内することが公平だと私は考える
店員が規範を破ってまで、過失のある者を優先し、過失の無い者を後回しにすることは、不正義だ
それは不幸の度合いを増加させることになる
司法取引はアメリカなどで行われているもので、たとえば、殺人犯が殺人は認めないが傷害致死なら認めてもいいと持ちかけたり、あるいは捜査官のほうが減刑を餌に罪を認めさせる制度である
はたしてこのような制度に正義はあるのであろうか?
メリットは何であろうか?迅速に事件を処理できることがあげられる また裁かれるべき人間に一応は刑罰がかせられ、無罪放免になることを防ぐことにもつながる
コストは何であろうか?真実を捻じ曲げることによって、行為に見合った刑が科せられず、一般予防や特別予防の効果を弱めてしまう また捜査機関の怠惰を招くことにもなる 複雑な事件には簡単に司法取引を持ちかけるようになり、捜査機関の存在意義が低下する また冤罪も増加するかもしれない 軽い刑になるならば、本当はやっていなくとも、応じるかもしれない
コストのほうが大きく感じられる だから司法取引は不正義だと私は考える たとえ、ごく一部の犯罪者が無罪になるとしても、捜査機関は真実を追究し、行為に見合った罰を求めるべきなのである
そのほうが長期的には社会全体の幸福が増大すると思う 妥協してはならない
刑事訴訟の目的は、真実を追究し、やったことに適合する罰を科し(やっていないことを罰しない)、犯人を反省させ、また社会に警鐘を鳴らすことだと考える